読書の愉楽

本の紹介を中心にいろいろ書いております。

ハイル、総統、ぼくたちに愛の手を!

 フフフと笑った顔は不敵そのもの。緑色の光の中でその顔は醜くゆがんで見えた。

 ぼくは驚いて思わず帽子をかぶりなおした。

 「ハインリッヒ、それはきみの本心なのか?」

 問いかけるぼくを無視して、ハインリッヒは前に向きなおり颯爽と馬をすすめた。シュヴァルツヴァルトの森の中でぼくたちは罪深い午後のひとときを過ごした。

 ハインリッヒの告白は、世界を変えた。それは胸に突き刺さる鋭いナイフであり、やり場を失った怒りの矢だった。大きくはじけた光の爆弾であり、立ち直ること叶わぬ快心の一撃だった。

 宿舎に帰る途中で、木にぶら下がる男を見かけた。ダビデの星の黄色い印が目に焼きつく。ぼくはそれを見て気分が悪くなったが、ハインリッヒは笑った。声も高らかに。

 宿舎では将校の号令とともに整列させられ、ひとりひとりが一発づつ頬を打たれた。奥歯を噛みしめたぼくは頬の内側を浅く切ってしまい、血を流した。

 「今日のは効いたよな、ゲオルク。おれはもう一発お見舞いして欲しかったくらいだよ」

 ベッドの中でハインリッヒが強がりを言う。ぼくは切れた頬がまだうずいていたので何も答えなかった。

 「どうしたんだよ、お前らしくもない。どうしてそんなにふさぎこむんだ?昼間のことをまだ気にしてるのか?」そう言いながら、ぼくの腰に手をまわす。ぼくは彼から逃げるように、ベッドの隅に移動した。

 夜が深まった。狼男の動き出す時刻だ。青白い月明かりが窓から差し込んでぼくの気持ちを昂ぶらせる。

 ハインリッヒが言った言葉。ぼくへの愛の告白。それは神への冒涜。あってはならない愛のかたち。

 だが、ぼくにもその気持ちはあった。彼の愛を受け入れる気持ちが。

 幼馴染のぼくたちは、いつも一緒に行動していた。お互い一人っ子だったし、歴史の波がなおさら二人の結束を固めていった。総統のもとに結集したぼくたちは厳しい戒律の中で親衛隊としての素養をつけていった。だが、本心ではぼくは総統の理念に疑問をもっていた。優生学なんて高尚なものは知らないけどもどうして同じ人間に格差ができるのかが理解できないのだ。白人であるということが、そんなに大事なことなのだろうか。

 それに、ぼくたちの行為は自殺行為でもある。このことが公になれば、処刑は免れない。なのに、ハインリッヒは恐れもせずに気持ちのまま行動しようとする。

 三月にダッハウに配属になるハインリッヒはそれがぼくとの永遠の別れになると思っているのだ。

 友よ、咲きほこれ。散ることなく、生きつづけよ。この狂気の時代はやがて終焉を迎えるはず。そうすれば間違いは正され、もっと生きやすい世の中になるだろう。気兼ねなく笑うことのできる、自由な言動が肯定される時代になるだろう。

 ぼくは眠った。眠れば変化はおとずれない。眠りの中では牙も爪も生えてはこないのだ。