読書の愉楽

本の紹介を中心にいろいろ書いております。

姫野カオルコ「彼女は頭が悪いから」

彼女は頭が悪いから (文春文庫)

  東大生五人が一人の女子大生に対する強制猥褻行為で逮捕されたというニュースを知ったとき、まず思ったのは『もったいないな』だった。そう、ぼくは東大まで行って何してんだと、人生棒にふったなと、そう思ったのである。このとき、被害にあった女性のことより東大生のほうに重きをおいて意識していた。それはやはり東大というブランド・ネームに反応したからである。

 肩書というものは、人を判断する好材料だ。医者、弁護士、議員、そういう肩書はかなり明るい後光を放つ。同じく東大といえば、日本の大学の中での最高峰だと誰もが認識する事実だ。だから、東大生だと言えば『スゴイねー』『賢いんだねー』『エライよねー』と無条件に褒め讃える。しかし、それは自身と他者とを分かつ威光なのか?努力して、様々なものを積み重ねて這い上がってその栄冠を勝ちとったのだろうが、その立場を振りかざしてよいのか?いわゆるエリートといわれる優秀とされる人材は、とかく他人を見下しやすい傾向にあるのかもしれない。

 こちら側の人間(ぼくです)としては、明らかに能力の差はあるのだと認めている。自分は、その立場にいないのだから、当たり前だ。だから自然と仰ぎ見る形になる。しかし卑屈になっているわけではない。もちろん、東大に入るってことはすごいことであり、素晴らしいことだ。だが、そのことに人間性の優劣が伴うのかといえば、それはまた別の問題なのである。育ってきた家庭環境や学歴がその人の価値を決めるものではないと頭でわかっていても、難関突破して頂点にのぼりつめた者にとって、やはり自分が成し遂げたことに対する自己評価はその他大勢と格段の差をうむ。それは誇りであり、優越感であり、一種の権力でもある。なぜならその肩書きは、自然と周りを平伏せさせる威光になるから。しかし同じ人間、隔たりがあったとしても、その上に立ってはいけない。同じ目線で向き合えない人は、人じゃない。きれいごと?そう思う人は、思えばいい。

 被害者である彼女は、見下された存在として彼らに認識された。ネタ枠ですと位置づけられた。もともと詳しい事情を知らないぼくは、この事件を男たちが寄ってたかって一人の女性を慰みものにしたと勝手に筋書きを作ってしまっていた。実はそうではないのだ。

 本書は歴然たるフィクションだ。はじめに事件ありきなのだが、本書はその事件に違和感を持った著者が書き上げた完全なフィクションなのだ。綿密な取材があったのかは知らない。すべて想像で書き上げたのかは知らない。しかし、作者はこの出来事がその時、その場で瞬発的に起こったことではなく何年も積み上げられて起こった出来事だと推測するのである。いわゆる「ハインリッヒの法則」だ。

 最初に戻るが、ぼくはこの事件を知ったとき、東大生たちに対してもったいないことをしでかしたなと感じた。しかし、本書を読み終えたいま、きれいごとだと思われたとしてもぼくは彼女と笑いあえる人間でいたいと思うのである。