読書の愉楽

本の紹介を中心にいろいろ書いております。

シフト人生

 他人の人生を体験するというのは得がたい体験であり、それが良いものであれ悪いものであれ、また元のぼくの人生に帰ってくることが保証されているのなら、お金を払ってでも一度体験したいものであると常々考えていた。それがどうだ、ほんとに夢に見ちゃったんだから驚いてしまう。

 というわけで、今回は他人の人生を体験する話。それもどんどん別の人生にシフトしていく話。

 どうかみなさん、振り落とされないよう気をつけてお読みください。

 十兵衛は、隻眼の剣士でありニヒルでなかなかいい男である。今日も今日とて、いつものごとく山賊狩りに精をだしていたわけだが、どうも昼頃から腹の具合がよろしくない。グルグルグルグルと差しこみがきて、思わず膝をついてしまいそうになる。これはもう堪らんとて、林に駆け入り一気に下帯をゆるめた。前日に食ったアマゴに虫でもついていたのだろうか?よく焼いてあったと思ったが、まだ火の通りが足りなかったのか。そんなことを考えながら懐紙を出そうと懐に手をいれたが、掴むのは空ばかり。これはいけないとて、周りを見回してもかわりに尻をふけるようなものはない。さて、どうしたものかと考え込んでいると林の向こうに早駆けの馬が見えた。

 どうにも落ちつかないと思っていたら、知らない間に馬に乗っているではないか。それを巧みに乗りこなしているのは、いったいどうしたことか?嫁に逃げられたり、電車の中では痴漢に間違われたり、昨日から碌なことがなかったが、今日のこれは究極だなと思っているところへ子供が飛び出してきた。

 いきなり目の前に馬が飛び出てきたので、驚いた。だって、こんな街の真ん中で馬に出会うなんて誰にわかる?ほんとうなら、馬の下敷きになって死んじゃってるとこなんだろうけど、うまいこと馬が後ろ立ちになったから助かった。でも、どうしてあのおじさん馬になんか乗ってたのかな?あ!いけない!塾に遅れちゃうよ。またママに叱られちゃう。塾の先生、ちょっと遅れただけで家に電話するからなぁ。うん?あそこにある看板は今日はじめて見たぞ。昨日まではキムタクだったのに、今日はきれいなお城になってるじゃん。それにしても、どうやったらあんな崖の上にお城が建てられるんだろう。すごいなぁ。白くて、いっぱい尖塔があって、大きいお城だなぁ。あ、あの窓のところに人が立ってるみたい。ドレスを着た女の人かな?

 ブリエスタは憂い顔を窓の外に向けた。崖下に広がる青い海は凪いで鏡のようにきらめいている。本来なら心落ち着く美しい景色なのだが、そんな絶景もいまのブリエスタにはなんの感慨も及ぼさない。そう、彼女は悩んでいるのである。それは決して他人に言えるような悩みではなかった。いつまでも自分の胸の内で葛藤しなければいけない悩みなのだ。なぜなら、このことが他人に知れわたってしまったら、藩侯である夫の地位が瓦解しかねないスキャンダルとなるのは間違いないからだ。しかし、不安は募るばかり。この頭を覆い隠す暗幕をとり除かなければ、もうどうにかなってしまいそうだ。彼女は不安に陰る目を眼下に向けた。海と城の間にある街道には、多くの行商人が行き来している。その中の一人が大きくつまづいた。その側を一羽のツバメが通り抜けていった。

 あぶないあぶない。もう少しで激突するところだった。ちょっと油断をしたら、これだ。ぼくは集中すると周りが見えなくなってしまうからなあ。気をつけなくちゃ。かといって、常に気を張ってなきゃ、いつ獲物がやってくるかわからないものなぁ。獲物を追いかけるときはまったくそれ以外は目に入らないからどうしようもないし。それにしても、さっきのトンボは大きかった。あれがあれば、うちのチビもしばらくは落ち着いて眠ることができたのに。あの男がつまづかなければ、逃すことはなかったんだ。ほんと悔しい。おっと、風の匂いが変わったぞ。こりゃ、ひと雨くるな。はやく引き上げなきゃ、身体が冷えて飛べなくなっちまうぞ。や?降ってきた。う!やべえ、今度は車に当たりそうになっちゃった。

 雨が降ってきたなと思ったら、いきなりツバメが突っ込んできて、フロントに当たりそうになったので驚いた。健吾は思わず首をすくめた。そうしてふと目をやると通りすぎた電柱に手書きの細長い看板がかかっていたのが気になった。確か高齢の女性が轢き逃げにあったとか書いてあった。目撃情報求む!という赤い字がまだ残像で残っている。おれじゃないよな?何か引っ掛かる。おれの記憶にクルクルと回って倒れ込むおばあさんの映像が浮かびあがる。あれ?どうして、そんな映像が頭に浮かぶんだ?倒れたおばあさんの耳から血が流れている。心臓がバクバクしてきた。おれがやったのか?確か、あの看板に書いてあった日付は二ヶ月も前だったぞ。そんなに長い間、おれは何事もなく過ごしてきたのか?おばあさんを轢いておいて?いや、そんなことはないはずだ。でも、この記憶はなんなんだ?

 自分を見下ろしているわたし。耳から血を流している自分を見つめるわたし。どうして、わたしはあんな道端に倒れているのだろう?もしかしてこれは臨死体験?でも、何が起こったの?誰かに殴られたのか、それとも引ったくりに遭ったのか?いやこれは事故なのかもしれない。なぜなら、わたしの周りに細かいプラスティックの破片が散らばってるではないか。あれは車についてる指示器の黄色いカバーなんじゃないか。うん、きっとそうだ。どんどん人が集まってきた。わたしの周りに。わたしは悲しくもない。いまは軽い気持ち。とても楽な気持ち。フワフワ漂って。どこに。行く。の。だろう。あ、あの人。お侍さん。林の中で。野糞?ふふ。おかし。