読書の愉楽

本の紹介を中心にいろいろ書いております。

青い黄昏

 青い夕方が神秘を誘う午後七時。ぼくは鼻唄をうたいながら、せせこましい町中をくねくね歩いていた。

 目的地がどこかはわかっているのだが、その場所の名前がわからない。頭の中に建物の形は浮かんでいるしそこへの道順も知悉している。でも、そこがいったいどういうところなのかがわからない。とにかく、ぼくはそこに向かって歩を進めている。

 町並みは少し賑やかな商店街だ。様々な店が軒を連ね、キタノ・ブルーに包まれた世界に明るい門戸を開いている。道行く人はみな急いでいるらしくぼくをどんどん追い抜いてゆくし、前から来る人は顔の表情が読み取れない。大きな公園を通りすぎ右見て左見て交差点を渡り、ふと見上げると頭上を渡る歩道橋の欄干から猿がぶら下がっていた。ぼくは足元にあった小石を拾って、なぜかそいつ目掛けて思いっきり投げつけた。石はブラブラ揺れている猿の右目にあたり、衝撃で落ちたところに右折してきた大型ダンプがやってきて、いとも簡単にミンチになってしまった。気持ち悪い場面なのに、ぼくはなぜだか爽快な気分を味わいその場をあとにした。後にこの猿が重要な意味を持つことになるなどつゆとも知らずに。

 気がつくと、もう陽はどっぷりと暮れてあたりは墨のように暗くなっていた。さっきまで賑やかだった喧騒は鳴りをひそめ、ぼく以外に歩いている人はいない。少し心細くなりながらも、一応目的地に向かってぼくは歩を進める。いっそう暗くなった辺りには民家もまばらで、どんどん人里はなれていくような感覚だ。やがて開けた玄関から洩れる光の中で作業をしている人が見えてくる。どうも何かを分解しているようだ。分解?いや解体だ。あれは何か大きな物をバラしてるんだ。持ち重りのする斧のような中華包丁を振り下ろして、バキバキとスゴイ音をさせながら大きな物体から何かを切り離している。ぼくはそこに不穏な空気を嗅いで慄く。あそこを通ってはいけない。頭の中で警鐘が鳴り響く。あいつに気づかれないうちに、いますぐ回れ右して、もと来た道を引き返すんだ!でも当然のごとくぼくが逃げる前に相手に気づかれてしまう。そいつがいきなり頭をあげて、こちらを睨んだのだ。ぼくは、その異様で鋭い視線に射すくめられて動けなくなってしまう。

 そいつはいきなり作業を中断し、ゆっくり立ち上がると大きな包丁を片手に持ったままぼくのほうに近づいてきた。

「よう!どうしたの、おたく。こんなところを歩いてるなんて、もしかして道に迷っちゃったとか?」

 声に少し嘲笑が混じっている。あきらかにこいつはぼくを弄っておもしろがっているなと思った。

「いえ、この先の、えーっと、あの・・・・」

 場所の名前が出てこないので、ぼくは行き先を告げることができない。かといってきびすを返して、この場から逃げ去ることもできない。なぜなら、足が地面に固定されてまったく動かすことができないのだ。

「どうしたの?どこ行くの?この先って山奥だよ。なんもないんだよ」

さらに声に笑いをにじませて言う。

「いや、だから、その、この先に行く場所があるんですよ。山奥の奥に」

「ほおー、そうなの?この先に?まあ確かに道はあるけどね。でも、いまからこの山奥に入っていくのはあまりオススメできないな。だって、こんなに暗いもの。あぶないでしょ?あなた、手ぶらみたいだし」

 どうして、ぼくはこんなところに迷い込んでしまったんだろう。なんで、こいつが気づく前に逃げだしてしまわなかったのだろう。いまさら悔やんでも仕方ないのだが、同じことばかり考えてしまう。

「あ、そうそう、あなた、うちの子見なかった?」唐突に言われて、ぼくは少し戸惑う。

「まだ帰ってきてないんだよね。いつもなら、もう帰ってきてるはずなのに。この先の大通りにある公園でいつも遊んでくるんだけど、おかしいなぁ」

 血の飛び散った包丁を片手にそいつは腕を組んで真剣に悩んでいる。

「いやあ、見なかったですね。どんなお、お、お子さんなんですか?」

「うん?いや、これくらいの背丈で」

 そういって、そいつが示した身長は異様に小さかった。丁度、そいつの膝下くらいだ。

「小さいお子さんなんですね」そのときは、まだぼくは重大な過失に気づいていなかった。

「そうなんだよ。小さいクセに異様に運動神経よくてさ、すごくすばしっこいの。橋の欄干の狭いところに乗って全速力で走ったりするんだよね」

 笑い声を上げるそいつにつられて愛想笑いしてたぼくは、あるキーワードに引っ掛かって、凍りつく。

 欄干?そういえば、ここに来る途中、欄干にぶら下がっていた猿。あれって、もしかして・・・・。

「それにさ、ウチの息子ちょっと背骨が曲がっててさ、遠目に見ると背格好が猿に見えるんだよね」

 真っ白になる頭の中。その瞬間、ぼくはここから生きて帰れないと悟ってしまう。