読書の愉楽

本の紹介を中心にいろいろ書いております。

川上弘美編「感じて。息づかいを。」

感じて。息づかいを。 (光文社文庫)

 

  恋愛アンソロジーというテーマだけど、なかなかバラエティに富んだ内容に驚くこと請け合い。ラインナップは以下のとおり。

 「桜の森の満開の下」 坂口安吾

 「武蔵丸」 車谷長吉

 「花のお遍路」 野坂昭如

 「とかげ」 よしもとばなな  

 「山桑」 伊藤比呂美

 「少年と犬」 ハーラン・エリスン/伊藤典夫 訳

 「可哀相」 川上弘美

 「悲しいだけ」 藤枝静男

 どうですか?恋愛のアンソロジーなんでしょ?って思いませんか?でも考えてみれば、恋愛といっても色んな形があるもんね。大きな括りでとらえたら、どんどん世界は広がるわけだ。
 巻頭の安吾は、有名な作品だから読んだ人も多いと思うけど、こんな凄惨な話だったっけ?すっかり忘れてました。映像化したら、さぞかしサイコパスな酸鼻なものになるだろうね。

 「武蔵丸」は、「赤目四十八瀧心中未遂」で有名な車谷長吉のカブトムシ愛に溢れたなんとも微笑ましく可愛らしい作品。私小説としての哀愁に溢れて忘れがたい印象を残す。

 「花のお遍路」は野坂らしさ満開のドロ愛劇場。息つく間もないロングブレスの文章が熱を孕み、ほんと魘されます。近親相姦を描いてこんなに痛みを感じてしまうとは。

 「とかげ」は、語り手がとかげと呼ぶ女性が出てくる。奔放でありながら繊細で自由、でも彼女には『秘密』がある。なかなかに衝撃的な。奇異で異質なものが侵食してくるゾワゾワ感を描かせたら、この人上手いよね。

 「山桑」は、本書の中でも特に変わった作品。くぼからぴりりと真二つに裂けて、そこだけ黒こげであとはきれいなまま死んでいた娘。くぼって何ですか?調べて驚きました。いやいやそれだけでなくて、最後は仏陀まで出てきて短い作品ながら、ガツンと頭を殴られちゃいます。

 「少年と犬」は三十年ぶり?もしくはそれ以上ぶりに読んだんだけど、これもすっかり詳細忘れてました。ベーシックなSFの世界観の中でおそらくスラング的な会話が小気味よくくりだされているんだろうけど、ここらへんの訳はちょっと鼻につく。いま現役バリバリの訳者の翻訳だったらまた違う印象だったかも。これも最後こんな終わり方だったかと驚いた。もっと叙情的な作品だったと勝手に思い込んでました。

 編者自身の作品である「可哀相」は、本書の中で唯一ストレートな恋愛物だともいえる。それでも、ちょっと変だけどね。男女がいて、性愛があって、お互い求め合っているけど、その関係は破綻しているようで堅固でもある。バランスがおかしいから、こちらにストンと落ち着かない危うさがあって、おもしろい。

 「悲しいだけ」も短い作品ながら、流れるような文章にのせられてスルスル読んでしまうが、描かれていることは重く辛い。愛する人が蝕まれていく様子を同じ時間を過ごしながら見守っていくって、どういう気持ちなんだろうか?いや、この気持ちは死ぬまで知りたくないもんだ。

 というわけで、なかなか読み応えのあるアンソロジーでした。

デイヴィッド・グラン「キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン: オセージ族連続怪死事件とFBIの誕生」

 

キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン: オセージ族連続怪死事件とFBIの誕生 (ハヤカワ文庫NF)

 思っていたのとは、ちょっと違ったな。確かに凄惨で私利私欲にまみれた身勝手な犯罪だ。しかも、規模がすごい。地域まるごと牛耳って自分の身を安全圏において余裕しゃくしゃくで犯行しているのが信じられない。

 しかし、しかしである。ここで語られるあまりにも非人間的な犯罪は、予測の範囲内だった。ぼくのね。心の中ではもっと悲惨で酷い事件の顛末が描かれるのかと思っていたが、そうなんだろなと思ってたとおりだった。

  でも、いまでは考えられない。1920年代といえば、日本じゃ大正時代。少し前までは西部開拓時代だったんだから、闇は真の闇であり、物事は理路整然とはいかず、なんにおいても取決めがゆるかった。だから、人は本能を優先し、道徳や法律の縛りなど意に介せず行動していたのだ。

 先住民としてインディアンがいて、それを力で屈した白人がいた。白人は、インディアンを蔑み蔑ろにした。もちろん、いい白人もいた。先住民を同等に扱う白人だ。危うい均整を保ちながら、誰もがそこそこ平和に過ごしていた。しかし、そこに莫大な量の石油資源があることが判明する。先住民であるオセージ族が所有する土地に眠る石油の利権を勝ちとった彼らは巨万の富を得ることになる。そこに群がる白人、そして不可解な殺人の幕が上がるのである。

 とまあ、内容はこんな感じ。全員がグルみたいな感じで隠蔽されていた犯罪が、いまのFBIの前身である捜査局によってふたたび捜査されることになる。

 本書のもう一つの読みどころとしてこのFBIの成り立ちも描かれる。若きJ・エドガー・フーヴァーが局長につき、次々と改革を進め、旧弊な組織を科学捜査にのっとった合理的でスマートな組織に変えてゆくさまが描かれる。へー、あの悪い噂しか聞かないフーヴァーがねー。

 というわけで、映画化を機に読んでみた。むしろ映画が楽しみになった。スコセッシ監督でデ・ニーロとディカプリオでしょ?絶対おもしろいじゃん!

朝宮運河編「宿で死ぬ ――旅泊ホラー傑作選」

宿で死ぬ ――旅泊ホラー傑作選 (ちくま文庫)

 こんなアンソロジーが出てたなんて、知らなかったー。ま、さほどインパクトの残る作品はないけれども、既読の作品もすっかり忘れていたので初読のような感覚で読んだ。ていうか、それくらいの作品だから印象に残らなかったんだろうけど。収録作は以下のとおり。
 
 
  「三つの幽霊」 遠藤周作
 
  「屍の宿」 福澤徹三
 
  「残り火」 坂東眞砂子

  「封印された旧館」 小池壮彦

  「湯煙事変」 山白朝子 

  「深夜の食欲」 恩田陸

  「カンヅメ奇談」 綾辻行人

  「螺旋階段」 北野勇作

  「ホテル暮らし」 半村良

  「狐火の湯」 都築道夫

  「トマトと満月」 小川洋子

 秀逸なのは都築道夫「狐火の湯」だね。怪談の雰囲気◎だし、こんなどうってことない、むしろ恐怖体験の中では人魂と並んでなんてことない題材をここまで鬼気迫る描写で読ませるんだから素晴らしい。ちょっとエロティックなところもあったりして、でもそれが嫌な感じでもない。叙情を感じる舞台と巧みな文章にのせられて、ギョッとします。似た感触でいえば、福澤徹三「屍の宿」もそんな雰囲気なのだが、こちらはもっと直接的。怪異が怪異を起こしているから、幻想味が増して少しボヤける。でも、ラストのセリフは心臓に杭を打たれる衝撃。坂東眞砂子「残り火」は、年の離れた夫に仕えているような夫婦生活に疲れがみえる房江が風呂焚きしながら壁越しに夫と話す会話の中で、何気ない言葉のやりとりから真相を知る話。心配しないで下さい、宿は出てきますよ。

 その他は先にも書いたとおりさほど印象に残らない。遠藤周作小池壮彦の作品は事実なんだろうから、作り物から距離をおいた奇妙さと信憑性はあるけどね。で、この朝宮運河氏が編んだアンソロジーがもう一冊あるので、それも読んでみようと思う。そちらのテーマは家ね。家ホラーは、結構書かれているから、本書より印象に残る作品が多いのではないかと期待する。朝宮さん、海外物でも編んでくれないかな?絶対読むんだけどな。やってくれないかなー。

ジョン・スラデック「チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク」

チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク (竹書房文庫)

 

  これだけ饒舌だと、なんかロボットとしての無機質さが感じられなくて戸惑う。だって、セクソロイドでもないのに、そういう機能がついていて、そういう事におよんだりするんだもの。読んでいる間ずっとぼくの頭の中で彼が一人の男として描かれていたのも無理ないことなのであります。

 本書はね、そのチク・タクというロボットが過去を回想しているという体裁で語られてゆく。何代にもわたるご主人様に仕えたこのロボット、数々の冒険に巻き込まれているのだが、ぼくは読んでいて、これってアメリカ伝統の『トール・テール』だなと思ったのである。いわゆるホラ話ね。いま、同時に「ポータブル・フォークナー」っていう本も読んでいるので、その影響も受けちゃっているのかもしれないけど、アメリカ南部的な大らかで時に残酷で、でも笑える素っ頓狂なエピソード満載なのだ。

 しかし、それが一筋縄ではいかないんだよね。チク・タクは過去を振り返っている。しかし、それは時系列で語られない。自由に行き来する。だから、興にのって読み進めているとアレ?いつの間にこの時の話になった?とページを遡ったりする。また、ただホラ話を楽しんで読み進めていくのではなくて、そこには思想も入ってくる。思想、哲学、有名なロボット三原則を実用化した『アシモフ回路』なんてのも出てくる。なのに、このチク・タクは人を傷つけるし、命さえ奪ってしまう。

 さて、いったいこいつは何者なんだ?そう思って読み進める。モンティ・パイソン的な狂騒の日々の中で、この悩まない潔いよい、いや潔すぎるロボットはありえない勝利を手に入れ、開眼の中で奇妙な使命に取り憑かれますますヒートアップしてゆく。スラップスティックの常套として大いなる狂気がもてはやされ、負の集積が主人公を成功に導く逆説がまかりとおる。それが笑いを生み、全体をユーモアが包み込んで、血と残酷さを脇へ押しやり突きすすむ。
 機械によって命を落とす話は無数にある。「猿の手」の頃からそれはありふれた悲劇だった。しかし、意志を持った機械は自ら人を傷つけるのか?この恐怖をあらゆる意味において取り除いたのがアシモフロボット三原則だったはずなのに、このチク・タクったら、本当にお茶目さん!

ギリシャ・ミステリ傑作選 「無益な殺人未遂への想像上の反響」

ギリシャ・ミステリ傑作選 無益な殺人未遂への想像上の反響 (竹書房文庫 ぽ 1-1)

「ギリシャSF傑作選 ノヴァ・ヘラス」 ギリシャのSFというものに初めて触れ、驚いた。やはり主流的な吸引力や派手さ、または痛快さや感動とは程遠い印象で、でもそんなバルカン半島に位置する小さな、でも雄大な歴史を持つこの国でささやかに花咲いたSFの風を感じることができた喜びは素晴らしいものだった。

 で、今回そのギリシャのミステリ傑作選が刊行されたのでまたまた読んでみたというわけ。収録作は以下の通り。

 
 アンドレアス・アポストリディス「町を覆う恐怖と罪――セルヴェサキス事件」

 ネオクリス・ガラノプロス「ギリシャ・ミステリ文学の将来」

 ティティナ・ダネリ「最後のボタン」

 ヴァシリス・ダネリス「バン・バン!」

 サノス・ドラグミス「死せる時」

 アシナ・カクリ「善良な人間」

 コスタス・Th・カルフォプロス「さよなら、スーラ。または美しき始まりは殺しで終わる」

 イエロニモス・リカリス「無益な殺人未遂への想像上の反響」

 ペトロス・マルカリス「三人の騎士」

 テフクロス・ミハイリディス「双子素数

 コスタス・ムズラキス「冷蔵庫」

 ヒルダ・パパディミトリウ「《ボス》の警護」

 マルレナ・ポリトプル「死への願い」

 ヤニス・ランゴス「死ぬまで愛す――ある愛の物語の一コマ――」

 フィリポス・フィリプ「ゲーテ・インスティトゥートの死」
 
 これね、前半の8作品は、これがギリシャのミステリってものなの?と、少し距離をおいて見てしまうようなとっつき難さがあって、ストレートにこちら側に響いてこない感じがした。表題作なんて、ちょっと説明しづらいこみいった作品で、試みはおもしろいんだけど、ギリシャにもギリシャのミステリにも新参のぼくには少し荷が重かった。なんか内輪のおもしろさみたいなもんもあるだろうしね。

 それがですよ、後半になるとこれがまた今までのは何だったの?てくらいわかりやすい話ばかりで、驚いてしまう。「三人の騎士」は、三人のホームレスのうち二人が惨殺された事件を残された一人のホームレスが囮になって犯人を追い詰めるという話で、単純明快この上ない。ま、ミステリ的にはひねりも何もないんだけど、読みやすさ抜群でぐいぐい読めちゃう。次の「双子素数」も、双子の片割れが無残な殺され方をしたのがどういう理由でか?というのが大きな謎で、それを残された双子の片割れがうにゃむにゃ・・・て話で、スピーディに事が運んでGOOD!
 「冷蔵庫」は、このタイトルが比喩的に使われているんだけど、老人が両膝を撃ち抜かれたあとに殺されている理由は何なのか?というミステリ。これにはギリシャの暗い過去が絡んでくるんだけど、話は単純明快そのもの。ヨーロッパ各国にはこういう暗い影が過去を覆っているんだよね。
 で、本書の中で一番ゴキゲンなのが「ボスの警護」ね。このボスってのがブルース・スプリングスティーンのことで、文字通りギリシャにやってきてコンサートを開くボスに脅迫状が届いたことから、厳重に警護する羽目になった警察の話。これは珍しくハッピー・エンドのお話なのだ。

 というわけで、疲れたのでここまでにするが、ギリシャのSFに続いてギリシャのミステリ、みっちり、むっちり楽しませて頂きました。

岸本佐知子、柴田元幸編訳「アホウドリの迷信 現代英語圏異色短篇コレクション」

アホウドリの迷信 現代英語圏異色短篇コレクション

 

  お二人のサイン本なんだよねー。この二人のサインが並んで書かれることってそうそうないだろうから、貴重だよね。

ま、それはさておき。本書にはこういった海外文学の目利きとして誰もが認めるお二人が選んだ未だ日本国内ではさほど知られていない作家のちょっと風変わりな作品が収録されている。ラインナップは以下の通り。


「大きな赤いスーツケースをもった女の子」レイチェル・クシュナー(柴田訳)

「オール女子フットボールチーム」ルイス・ノーダン(岸本訳)

「足の悪い人にはそれぞれの歩き方がある」アン・クイン(柴田訳)

アホウドリの迷信」デイジー・ジョンソン(岸本訳)

「アガタの機械」カミラ・グルドーヴァ(柴田訳)

「野良のミルク」「名簿」「あなたがわたしの母親ですか?」サブリナ・オラ・マーク(岸本訳)

「最後の夜」ローラ・ヴァン・デン・バーグ(柴田訳)

「引力」リディア・ユクナヴィッチ(岸本訳)


 そして、それぞれ一作選出した後に「競訳余話」としてお二人の対談が挿入されているという作り。まあ、見事に知らない作家ばかりだ。内容については実際に読んでみていただくのが一番だと思う。タイトルから汲み取れるものもあるし、読んでみないと見当もつかないものもある。
ぼくが一番印象に残ったのは「アガタの機械」かな。ほどよい幻想味、はかない美しさ、特異なキャラクター、驚き、いろんな感情がせめぎ合い、強く印象に残った。他の作品も短くて簡潔なものばかり選ばれているから、比較的とっつきやすいと思う。


 でも、こういうアンソロジーに出会うと、当たり前のことなのだが、本当に書き手は自由に書けるんだなと思う。与える側の可能性は無限なのだ。受けとる側の読者のほうには、それぞれ素地も必要だし、千差万別だと思う。例えば「アホウドリの迷信」という短編にはそのままアホウドリがでてきたりする。それも家の中のテーブルの上に突然現れたりするのである。ここ一つとっても、アホウドリを知っている、知らない。その大きさを家の中に置き換えて想像できる、できないで受ける印象もまったく違うものになると思うのである。細かくいえば、鳥特有の無機質な目や、意外に生々しい足回りなんかも思い描けるかどうかでまったく印象が変わってしまう。

 そりゃあ、こんなこと言い出したら際限ないとは思うんだけど、こういう作品集読んだら、思わずそう感じたってわけ。書く方と読む方、いわば能動的作業と受動的作業。これのバランスがうまくとれた時に感動や驚きが生まれる。

 ぼく?ぼくは半々て感じかな。どちらかといえば、柴田先生の選ぶ作品のほうが好みだったかも。それにしても、楽しい読書でした。

カーソン・マッカラーズ「マッカラーズ短篇集」

マッカラーズ短篇集 (ちくま文庫 ま-55-1)

  ずっと気になっていた作家だ。なんか、境遇含めてフラナリー・オコナーと混同していたのだが、こうして両方の作品に触れてみると、やはりしっかり区別できるよね。

 オコナーは、非情さと過剰な負の光彩に彩られているけど、マッカラーズは非情さの匂いを残しながらも、ユーモアも感じられる。それと哀れさとでもいおうか、涙の痕跡をたどるような、やり遂げなくてはならない決意の裏にある悲しさみたいなものが感じられた。

 本書の大半を占める「悲しき酒場の唄」は、不器用な生き方しかできない人たちが織りなすドラマだ。人間だれしも不器用であって、どんな偉業を讃えられた偉人でも細部では受け入れられないところがあったり、独特の癖があったり、人に接する部分で不器用であったりするものだ。まして、偉業も成していないその他大勢の我々にいたっては、不器用が服着て歩いているようなものではないか。

 そんな自戒はまあいいとして、「悲しき酒場の唄」を読んでいると、到底自分ではこういうことにはならないよな、と登場する人物すべてに自分を当てはめて読んでいても思うのである。でも、理解はできる。こうだから、こうなるというような明確な答えが出る状況ではないにも関わらず、その展開に不思議と納得がいってしまう。そうはならないだろうと思っていても、それはまだ馴染みのある奇妙さであり、冷酷さだった。そこにはまだ人と人との関係における温もりもあって、落ち着ける部分があった。悲しい感情に引きずられる焦燥と、どうにもならない達観が同居しているような諦めがしがみついた希望が描かれていて読み心地は悪くない。

 すべてはうつろい変わってゆく。前はそうであったものが、今はそうでなくなる。余計なものが増えたり、当たり前だったものが失くなったりする。時の流れは成長を促し、感情は老成してゆく。そういったどうにもならない移り変わりを切り取って自らの境遇を反映させマッカラーズは物語を紡いでゆく。それは変えることのできない自分の匂いや信念が、人とは違う感情や受け取り方が、成長と喪失の中で変化しながらも確固として存在することを確認する作業なのかもしれない。

 次は長編を読まねば。「心は孤独な狩人」も「結婚式のメンバー」もどこかにあるはず。