読書の愉楽

本の紹介を中心にいろいろ書いております。

遠野遥「改良」

 

改良 (河出文庫)

 自らの容姿をそのまま受け入れるのが自己の肯定なのか?では、化粧した女性は?自分をよりよく見せようとする努力は十年前は主に女性の関心だった。現在では、男性も脱毛サロンに通うし、男性用化粧品も数多く売られている。そうやって世の移り変わりは生き方、考え方、受け取り方を変えてゆく。本書の主人公である男子大学生は、いわゆるトランスジェンダーで自身を美しくする方法を模索している。化粧をしてウィッグをつけロングスカートにニットを着て夜の街に出てゆく。しかし、彼は美しくありたいだけで、女性に対して性的興奮も覚えるし、男性が好きなわけでもない。だから、性同一性障害ではないわけだ。ここらへんの線引きは、いたってノーマルなぼくにとってすこぶる難しく感じる。これにLGBTの考え方を加えると、もうお手上げだ。何が正しいのか、どの発言が間違っているのかよくわからない。

 とにかく、本書の主人公の男子大学生は、マイノリティとして模索しているのである。それは自己肯定の旅だ。しかし、その過程で彼は手痛い仕打ちを受けるのである。

 どうも、こういう性を主題に据えた作品は、あまり心に響かない。それが、好色的な扱いをしていない作品であってもだ。ままならない状態は一言でいうなら悲劇だ。だから、それを描こうとすれば苦悩や痛みや敗北感などが幅を利かせてくる。よりどころが欲しいわけではないが、自分と照らし合わせてしまうところもあるから、ネガの部分はぼくの心情とは並列に語ることはできないのだ。

 この人は、先に「教育」という作品を読んだ。そちらもいまいち感覚的に浸透しなかった。よほどのことがない限りこの作者の本はもう読まないだろうと思う。性差をアイデンティティにまで掘り下げるような困難な状況に身をおかないぼくにとって、本書は通過しただけの作品となってしまった。数時間で読めちゃったというのも、起因しているかもしれない。ままならぬことだなあ。

佐藤正午「月の満ち欠け」

岩波文庫的 月の満ち欠け

 まず言っておきたいのが、この本の体裁。これ、一見岩波文庫の一冊のように見えるけど、さにあらず。実際、手にとって見てもらったらわかるのだけど、岩波文庫的となっている。左下のおなじみのミレーの種まく人のマークも色使いが月の満ち欠けになっているのである。確かに岩波文庫のラインナップを見ると、海外は現代作家も入っているけど、緑色でおなじみの日本文学には現代作家はいない。いわゆる古典のジャンルに入る作品ばかり。なのに、そこにこの佐藤正午の本は体裁を整えて紛れ込んでいるのである。

 すごくない?こういう扱い受けている作家、他にいないもんね。で、本書が岩波の最初で最後といわれている第157回直木賞受賞作なのである。でもまあ、ぼく的には本書より「鳩の撃退法」のほうがランクは上だけどね。宮部みゆきも「理由」なんてしょうもない作品で直木賞獲ってるし、なんか基準がよくわからんのだけども。

 それはさておき。

 本書の内容なのだが、これは詳しく語らないほうがこれから読む人にはいいと思う。本書のストーリーはそうなのだ。読者はページを開いた瞬間から関係性がまるでわからない登場人物たちの1シーンを見せられる。それはすぐ終わって、また違う時系列の話がはじまる。でも、とまどいはない。なんせ、佐藤正午小説の神様に愛されている人だから。読者は新たにはじまったストーリーを夢中で追いかける。なんでもない日常に入り込む一抹の不穏。

 キーワードは「瑠璃も玻璃も照らせば光る」

 とても複雑な読後感だ。正しいのか間違っているのか、幸せなのか不幸なのか?何も見えない。夢はあるけど、素直に喜べない。可能性は望みと直結するのか?受け入れたとして、それは真の愛の居場所なのか?現実が眩しすぎて、見極めることもできない。ぼくならどうする?なんて問いかけは、成立しない。なぜなら、このことに関してシミュレーションする題材は皆無だから。落ち着いて、落ち着いて。あなたの思考はとどまらない。溢れ、流れ、とめどない。

 ラストにいたって、作者はまた時間をさかのぼる。それは、あまりにも巧みな演出だ。不安の中に見いだせた充実。満たされた思い。世のことわりを無視した結実。読者は、溜飲が下がると同時に本来の時間軸の物語の行末に希望をもつ。

 ここであまりにもストレートな短歌が胸に響く。

 君にちかふ阿蘇の煙絶ゆるとも萬葉集の歌ほろぶとも

 人を愛する気持ちって、こういうことだよね。

ヘンリー・カットナー「ロボットに尻尾がない」

ロボットには尻尾がない 〈ギャロウェイ・ギャラガー〉シリーズ短篇集 (竹書房文庫 か 18-1)

 河出書房新社が海外文学の紹介に力入れてるなと思っていたら、今度は、竹書房文庫から海外SFがなんやかんやと刊行されるようになった。とても喜ばしいことだよね。しかも、現代の作品のみならず、こうやって過去の埋もれた作品にまでスポット当てるんだから侮れない。

 というわけで、このカットナーさん結構重要な作家みたいで、後続の作家たちに多大な影響を与えた人でもあるということで、あのレイ・ブラッドベリリチャード・マシスン、それにロジャー・ゼラズニイなんかも名を連ねているから、すごいんじゃない?さらに驚くことに、この人デビューがウィアード・テイルズ誌にクトゥルフ物を書いたのが最初だそうで、あのラヴクラフトとも友人関係だったそうな。すごいじゃん、カットナー。この人、いろんなペンネームを使ってさまざまな作品を発表してたらしく以前アンソロジーで読んだ「ボロゴーヴはミムジィ」も名義がルイス・バジェットだったから気づかなかったけど、正体はカットナーだったみたい。あの作品も素晴らしかったなあ。

 というわけで、本書なのであります。これ、連作の短編集で、主人公は呑んだくれて泥酔すると天才科学者になるギャラガー。だから、彼は色んな依頼を受けて、前金もらってそれを解決するヘンテコな機械を作るのだが、素面に戻った時に一切合切すべて忘れてしまっているというのが、毎回のパターン。だから、てんやわんやしながら、いったいどういう依頼があって、どういう解決作を導きだしたのか?というのが焦点になる。

 でもそれが一筋縄ではいかないから、おもしろい。それに途中からナルシストのロボットなんかが加わって、これがまた話をややこしくするからえらい騒ぎなのである。だから、本シリーズは、多分にユーモア強めのSFなのであります。と、簡単に締めくくってもいいのだけれど、もう一言。

 このカットナーさん、色んな作家に影響与えただけあって、なかなか巧みに話を作ってくれるんですよ。一見全く意味の見いだせない発明品が、ラストに至ってすべてストンと見事に着地するのである。そのもっとも鮮やかなのが四編目の「Gプラス」。三つ巴の込み入った依頼がたった一つの機械で丸く解決してしまうのだから、痛快きわまりない。その手際からも、ぼくの中ではこの人はジャック・リッチー並みに頭の切れる人なんじゃないかと思っております。

C・J・ボックス「鷹の王」

 

鷹の王 (講談社文庫)

 今回は、ジョーではなく彼を陰ながら助けてきた元特殊工作員アウトロー、ネイト・ロマノウスキが主役なのであります。我慢できなくて続けて読んじゃいました。この分でいくと新刊刊行に追いつくのも目に見えてますね。

 で、本書なのだがこれがもうああた、ドキドキしっぱなしの500ページ強でしたことよ。構成はすこぶる単純。ネイトを亡きものにしようとするかつての仲間がいよいよ本腰入れてやってきたということで、冒頭からいきなりネイトは命を狙われ、逃亡するはめになってしまう。一方ジョーのほうは静かな町に不穏な事件が起こるのを皮切りに、ネイトの身に危険が迫っていることを知る。

 物語はこの二方向の動向を交互に描いてゆく。至極常套だよね。とてもシンプルな構成だ。だが、そこはボックス、かなりグイグイ読ませる。交互に語られる場面は、各章の終わり際いったいどうなる?という場面で切り替わる。いや、わかってるんだよ、これがほんと常套手段だってことは。でも、それがストレートに気を持たせる。もう、気になって仕方がない。

 今回は、敵が尋常じゃないのだ。全容がなかなか明らかにされないから、その脅威は想像上ではかりしれなく大きくなってゆく。語られるエピソードに某国の大統領だかの口を割るのに、目の前でその娘の顔の皮を剥いだなんてとんでもないのが出てきておののき、さらに我らが対峙している敵の怖さが強調される。

 ネイトは、そうそうやられることはないだろうと、ある程度の期待はあるけど、問題はジョーとその家族だ。彼らのまわりに敵が近づいてくるんじゃないかと気が気でないのだ。もう、その緊張感で、血管切れるんじゃないかとやきもきした。

 そうそう、結局ネイトがなぜかつての仲間に追われることになったのか?ていう謎が本書で語られるんだけど、それにはあの歴史的大事件が絡んでいるんだよね。ここらへんの盛り上げ方もなかなかのものでした。

 というわけで、いやあおもしろかった。ドキドキした。一気に読んじゃった!!!!

 ほんとこのシリーズ読み続けてよかったー!!!!!

C・J・ボックス「冷酷な丘」

冷酷な丘 狩猟区管理官シリーズ (講談社文庫)

 久しぶりの猟区管理官でございます。安定のリーダビリティなのでございます。で、ここで本書のあらすじを簡単に紹介するのがスジなんだろうけど、このシリーズ読んだことない人にとっちゃあそんなもんどうでもよくね?と勝手に判断して、敢えてそれをせずに突っ走っちゃいます。

 もう十冊以上このシリーズ読んできてるから、毎回毎回その魅力をお伝えしようと色々書いてきた。だからぼくの感想を読んでこられた奇特な方がおられたなら、もうそれはよくわかってるよとおっしゃられると思う。

 本来、ぼくは西部劇って好きじゃないのだ。無骨で汗臭くて硝煙と血の匂いにまみれた砂塵の町、正義感がつよく、凶悪な敵にも決して屈しない主人公。やさしく気高いヒロインと飛び交う銃弾。そして愛すべき馬。いやあ、まったく好みじゃない。だから現代の西部劇と評されるこの猟区管理官ジョー・ピケットのシリーズにこれほどのめり込むとは思ってもみなかったのだ。食わず嫌いはいけませんよ、みなさん。

 たしかに、このシリーズは現代の西部劇なんだろう。ワイオミング州というアメリカの中でも一種特殊な独特な個性をもつ土地が舞台であり、建国以前はインディアンの部族が先住民として数多くいた土地でもある。どちらかといえば、山と緑のほうが多いんだけどね。だから、シーズンになると狩猟がメインイベントになる。みんなが浮足立つ。この感覚もぼくにはないものだ。だけど、このシリーズを読んでいると、エルクの背肉のステーキを食べてみたくなるのも事実。そういった、われわれの日常とはかけはなれた生活が描かれるのが、まず一点。しかし、そこに登場する人々は、まったく等身大の人たちだ。ぼくの有り様となんら違わない。主人公のジョー自体、ほんと普通の男であって、人より長けた技を持っているわけでもなく、脅威に対しては自然に怯え、正直に弱音を吐く。その部分のまるで平易な人物造形の魅力が、もう一点。だけど、彼は高潔ともいえる正義に対する信念があり、言い方を変えれば融通のきかないただの頑固者なのだが、その変わらぬ姿勢の安定感が、さらに加点される。そして、それを上書きするような、家族に対する並々ならぬ愛情。もうこれだけあれば、このシリーズを愛さずにはいられないでしょうっての!
 
 そして、それに加えて物語自体の大いなる魅力。ジョーが、窮地に立たされる。彼の家族が脅かされる。どうやって乗り越えるのか?静かで頼もしいアウトローな味方であるネイト・ロマノウスキは、どんな活躍をみせてくれるのか?そういったモロモロが集約されて本シリーズの魅力となって溢れだす。

 ぼくは、射手座の宿命を背負っているので、かなりの飽き性なのだが、そんなぼくでも完走したシリーズ物が片手くらいはある。かのドイル卿が生み出したシャーロック・ホームズのシリーズ、ウィンズロウの愛すべきニール・ケアリーシリーズ、ウィングフィールドの巧みなフロスト警部シリーズ、そして本書である。だから、おもしろさは間違いない。だって飽き性のぼくがこれだけ続けて読んでいるんだから、間違いないでしょ?

倉数茂「名もなき王国」

名もなき王国 (ポプラ文庫)

 物語が物語を生み、物語が分岐し、物語が物語を包んでゆく。ぼくは、こういう繚乱とした世界が好きだ。ここにはいくつもの世界がある。それぞれが少しづつ絡みあい関連性を持ち、しかし明確な関係性はあきらかにされず、まるで物語の森に分け入るように本の中に迷い込んでゆく。

 主要な登場人物は三人。著者である私。私の友人で、若き作家である澤田瞬。その瞬の伯母ですでにこの世を去った隠者の沢渡晶。物語は、この三人を巡ってそれぞれが登場人物になったり、それぞれの創作になったりして我々の目の前に入れ替わりあらわれる。それは、めくるめく体験だ。六つの章に分かれたそれぞれが別々の物語であり、五章にいたっては沢渡晶が書いた掌編集、六章は入れ子構造とあらゆる手を使って物語の森が深まってゆく。いったい、ぼくはどこに連れて行かれるのだろうか?それは、最後の最後になるまでわからない。これだけ広げられた世界がどうやって終焉をむかえるのか。

 どんなに優れた物語にも終わりはやってくる。本書も長い紆余曲折を経て世界は閉じられる。瞼を閉じるように。錯綜した事柄は、すべてきれいにおさまる。断片、謎、言葉の意味、眼差し、息遣い、匂い。すとんと落ち着き溜飲と共に世界は閉じる。それは、喜び?強い肯定?ためらい?苦味?やさしい嘘?未来の友?消えた彼女?ぼくが経験したあらゆる事柄を上塗りして想起させる。

 山間に消えゆく夕陽、激しく振られる尻尾、難しい数式、光る水面、浮きでる血管、長い煙、苦痛にゆがむ顔、こぼれたジュース、彼女の髪の匂い、狂った時計、焦げた肉、もげたバッタの脚、世界は回る。

 ぼくは思う。物語が世界を救うのだと。バロメッツはどこかにあるのだと。大きな羊の実をつけているのだと。痛みや悲しみや苦しみが次々やってきたとして、傷つき、血を流し、倒れてもその先には明日があるのだと。

 世界は美しい。そう思える、いや、思わざるを得ない、そんな気持ちになる小説だった。読んで良かった。

櫛木理宇「死刑にいたる病」

 

死刑にいたる病 (ハヤカワ文庫JA)

 久しぶりにサイコパスが登場するミステリ読みました。映画化されたから、観る前に読んどこうと思って。この小説、おもしろいのは連続殺人鬼が誰で、どういった犯行を重ねてとかいう展開じゃないところ。だって、稀代の殺人鬼 榛村大和は、すでに捕まって拘置所に抑留されているんだから。事件はすでに解決している。じゃあ、いったいどう話が転がるの?ってことなんだけど、ここで登場するのが大学生の筧井雅也。田舎町でかつては神童なんていわれてたけど、いまは現実の厳しさをいやというほど思いしった、ちょっと世を拗ねた青年。彼のもとにある日 榛村大和から手紙が届く。そこには、立件されている24件の殺人のうち、最後の1件だけは自分が犯したものじゃないと書かれている。それは冤罪だから君がそれを証明してくれないか?と。

 なんで?いきなり死刑囚から手紙が届くってありえねー。と、思ったあなた。いやいや、それはちゃんと納得のいく、すとんと落ち着く話ですから大丈夫。で、なんやかんやあって、結局筧井くんは調査に乗りだすことになる。いきなり素人がそんな調査なんてできんの?とも思うけど、そこもちゃんとリカバリーされているからご安心を。

 そこから展開する話は、まるで歌舞伎か韓国ドラマかってくらいみんなが絡みあってくるド因縁話になってくるんだけど、これがおもしろい。すべての中心にいるのは殺人鬼 榛村大和だ。彼の造形はほんと巧みで薄ら寒い。ゾッとすること請け合い。きれいに整った美しい顔で、まわりにいる人みんなを魅了して、虜にする。人の心を掌握する術に長け、彼が殺人鬼として捕まった後でさえ、まわりの人々はなにかの間違いじゃないかなんて言い出す始末。

 かつてニーチェが「善悪の彼岸」の中で、怪物と戦う者は、その過程で自分も怪物にならないように気をつけなければならない。深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ。ということを書いていて、ぼくはこれをトマス・ハリスの「レッド・ドラゴン」で知ったのだが、まさに、筧井くん、そのとおりになっちゃうんだよね。ぼくだったら、絶対こうはならないなと思ったけど。

 で、結局、冤罪だったのか?なぜ榛村は、筧井くんに白羽の矢をたてたのか?どうか、みなさん自分の目で確かめてください。最後の最後まで薄ら寒いこと請け合いです。