読書の愉楽

本の紹介を中心にいろいろ書いております。

倉数茂「名もなき王国」

名もなき王国 (ポプラ文庫)

 物語が物語を生み、物語が分岐し、物語が物語を包んでゆく。ぼくは、こういう繚乱とした世界が好きだ。ここにはいくつもの世界がある。それぞれが少しづつ絡みあい関連性を持ち、しかし明確な関係性はあきらかにされず、まるで物語の森に分け入るように本の中に迷い込んでゆく。

 主要な登場人物は三人。著者である私。私の友人で、若き作家である澤田瞬。その瞬の伯母ですでにこの世を去った隠者の沢渡晶。物語は、この三人を巡ってそれぞれが登場人物になったり、それぞれの創作になったりして我々の目の前に入れ替わりあらわれる。それは、めくるめく体験だ。六つの章に分かれたそれぞれが別々の物語であり、五章にいたっては沢渡晶が書いた掌編集、六章は入れ子構造とあらゆる手を使って物語の森が深まってゆく。いったい、ぼくはどこに連れて行かれるのだろうか?それは、最後の最後になるまでわからない。これだけ広げられた世界がどうやって終焉をむかえるのか。

 どんなに優れた物語にも終わりはやってくる。本書も長い紆余曲折を経て世界は閉じられる。瞼を閉じるように。錯綜した事柄は、すべてきれいにおさまる。断片、謎、言葉の意味、眼差し、息遣い、匂い。すとんと落ち着き溜飲と共に世界は閉じる。それは、喜び?強い肯定?ためらい?苦味?やさしい嘘?未来の友?消えた彼女?ぼくが経験したあらゆる事柄を上塗りして想起させる。

 山間に消えゆく夕陽、激しく振られる尻尾、難しい数式、光る水面、浮きでる血管、長い煙、苦痛にゆがむ顔、こぼれたジュース、彼女の髪の匂い、狂った時計、焦げた肉、もげたバッタの脚、世界は回る。

 ぼくは思う。物語が世界を救うのだと。バロメッツはどこかにあるのだと。大きな羊の実をつけているのだと。痛みや悲しみや苦しみが次々やってきたとして、傷つき、血を流し、倒れてもその先には明日があるのだと。

 世界は美しい。そう思える、いや、思わざるを得ない、そんな気持ちになる小説だった。読んで良かった。