続けて読んじゃった。今回は中編が二つ収録されている。まず「生者の言伝」だが、嵐の夜に山中で車が故障して助けを求めた館で翡翠たちが遭遇する事件が描かれている。奇妙なことに、その館には中学生の男の子が一人しかおらず、しかもきれいなお姉さん二人を前にして舞い上がっているのを差し引いてもどこか様子がおかしい。そこで疑問を抱いた翡翠は、事の真相を探ろうとするというお話。
いつものごとく、一等最初に犯行と隠蔽が描かれる。読者は、それを知った上でストーリーを追うことになる。だから、あ、翡翠は疑いだしてるな。あ、動揺を誘おうとして仕掛けてるなと裏の意味を確認しながら読みすすめる。でも今回の事件は犯人が中学生の男の子なのだ。いったいどういう結末がまってるんだとそちらが気になって仕方がない。これは最初から描かれていることなのだが、この少年は館の持ち主の家族ではなく赤の他人であり、死んでいるのはここの持ち主である少年の友達の母親なのだ。まったく、どうなるの?少年の家庭環境も少しづつ明かされてきて、過酷な実態が垣間見えてくる。
でラスト。ここで、読者は驚くことになる。え?何?何が起こっているの?ど、ど、ど、どゆことー!!!!!
次の「覗き窓の死角」は偶然翡翠と友達になった女性が殺人を犯すことになる。翡翠にはこういう試練がつきまとう。大好きな本格ミステリの話で盛り上がれる本当に愉快な友達。だがその友達は最初から翡翠を殺人のアリバイに利用しようとしていたのだ。ここまでの作品でもちらほら描かれてきたが、翡翠の信念としての殺人という究極の暴力行為をどんな理由であれ決して許す事はできないという思いが強く描かれる。確かにそれは真っ当な意見だ。しかし、愛する家族や恋人をなんらかの理由で奪われた人たちがその元凶となった相手を殺してやりたいという気持ちは理解できなくもない。自分がそういう経験をしていないからというきれいごとは抜きにして正直そう思う。しかし、人の命を奪うというのは、やはり決して許されることではないのだ。理性でわかっていても本能を制御できるかどうかわからないこの究極の命題をしかし翡翠は確固たる信念で貫きとおしてゆくのである。
いったい彼女の過去に何があったのか?本書のラストでも、翡翠の過去のしがらみが軽く浮上してくる。それは、これまでの物語の中でもちらほら見えていたものの続きだ。さて、これ以降の物語でその謎は徐々に明かされていくものと思われる。その時、このシリーズがまた反転したりしちゃってと勝手な期待を寄せているのは、ぼくだけだろうか?
相沢沙呼「invert 城塚翡翠倒叙集」
前回の「medium 霊媒探偵城塚翡翠」は、ほんと久々に驚かされたミステリだったが、あれの続編ていったいどうなるの?と思っていたら、倒叙集となってかえってまいりました。
ミステリ好きならおなじみの倒叙。犯人と犯行は最初からわかっていて、どうやってその犯行を見破るのか?というのが倒叙でありまして、刑事コロンボや古畑任三郎が有名だよね。
倒叙のおもしろいところは、犯人との駆け引きがダイレクトにみれるところにある。読んでいる読者はもちろんのこと、探偵もおおかたはじめの方から犯人が誰かがわかっている。どうやって犯人の犯行やアリバイを崩すのかというところに争点はしぼられる。だから、犯人が自信満々で余裕ぶっこいていればいるほど、それが崩れさったときのカタルシスがたまらないのである。本書には、「雲上の晴れ間」、「泡沫の審判」、「信用ならない目撃者」の三編が収録されているのだが、もっとも紙数がさかれている三編目が一番おもしろかった。元刑事であり、捜査のノウハウを知りつくした男が殺人を犯すのである。だから、何が証拠となるのかすべてわかった上で偽装工作するのである。さて、翡翠はこの手強い犯人を相手にその罪を暴くことができるのか?この三編目は、読者に対して大胆なトリックが仕掛けられていておもしろい。まさしく『反転』だ。映像化不可というわけで、小説メディアでのみすっかり騙される作りとなっている。
さて、ここらでもうそろそろ城塚翡翠のバックグラウンドが明かされてもいいんじゃないかと思うのだが、どうだろう?このまま三冊目いってみたいと思います。
オルハン・パムク「無垢の博物館(上)」
無論オルハン・パムクも初めてだし、トルコの作家の手になる小説も初めてだ。しかも、本書の物語が描かれている年代が70年代なのである。当時のトルコにおいて男女の恋愛は、大前提に結婚があり、婚前交渉などはもってのほかという風潮だ。ま、ここらへんは当時の日本も似たり寄ったりだったんじゃないかとは思うのだが、しかしトルコといえばイスラム教。戒律的になにかとややこしい。
で、本書の主人公であるケマルは婚約者がいるにもかかわらず、偶然出会った親戚の娘フュスンと関係をもってしまう。幼いころに一緒に遊んだこともあるこのひと回りも歳下の娘は、一度はお互い愛を誓った仲だったのに、ケマルが曖昧な態度をとったがために離れていってしまう。
失ってはじめてその存在の大切さを思い知るのは世の常であり、ケマルもそういう状況におかれてはじめてフュスンを激しく求めるようになる。そのためフュスンのことで頭がいっぱいになり、婚約者との関係も破棄され、よりどころも失くすことになる。ここからがこの上巻のメインとなるのだが、このケマルという男は、まったく潔くなく未練がましくフュスンを追い求めるのである。
それは悔恨の彷徨だ。女々しいことこの上ない。ぼくが同じ立場だったとして、まずこうはならないと断言できる。そういう思いで読んでいると共感も同調もできないから、冷めた目でみてしまう。というか、彼の行動に引いてる自分がいる。だって、彼女の触れたものや、残り香のあるものに執着して、そこに慰めを見いだすなんて。
そこまでして、追い求めるフュスンはまったく姿を見せない。消えてしまったフュスン。しかし、上巻のラストでついにケマルは彼女と再会する。しかしそこには思いもよらない再会が待っていて・・・・。
というわけで、下巻いってみよう!
呉勝浩「雛口依子の最低な落下とやけくそキャノンボール」
変わった話なのである。かなりね。開巻早々、猟銃乱射事件の記事が目に飛び込んでくる。死人が出てるし、無差別殺人かなんかなの?と思いながら、この事件を頂点に物語が語られるんだろうなと予測する。
しかし、しかしだ。話はいきなりシフトするのである。団地の屋上から投げ捨てられる女の子。もちろんタイトルになっている雛口依子じゃないよ。しかし、依子は依子でバイクで田んぼ道を走行中に車に激突して吹っ飛んでしまうのである。そして、アスファルトに地獄のキスをしようという瞬間に物語は過去に遡る。
そこから先は………そこから先は、家族の話になる。でも、それはもちろん普通じゃない家族。軽くて明るいのに暴力のキナ臭さがつきまとい我が身は、血と硝煙に包まれてゆく。
そして、現在パートにおいてなんとなく笑えるバディ物として、ていうか依子なかなかのユーモアセンスじゃん!とおもろく読んでいたら、こちらも血と硝煙に突き進んでいくのであった!
ま、始まりが猟銃乱射事件の記事だから、これはいたしかたないワケでありまして。
でも、久しぶりに夢中になっちゃった。話がどこへ転がるのかまったく見当つかないから、おもしろいよね。それに巻末には、毒母メンヘラ娘の切り抜き小説が袋とじでついてるし、カバーの裏には、手書きの涙なくして読めない毒母メンヘラ娘の女の子による創作小説が手書き文字で印刷されてるしで、もうほんとに大満足の一冊なのでありました。
あ、この文章読んでなんのこっちゃ?と思われた方、ぜひぜひ本書をお読みください。ほんとキャノンボールなんだから!!
長岡弘樹「道具箱はささやく」
原稿用紙にして20枚。とても短い。その中でミステリとしてのサプライズを眼目とした作品を成立させる。そういう短篇が18収録されている。タイトルにもあるとおり、その中ではある種の道具がからむ仕様となっている。しかし、世間の評判はいいようだが、ぼくはあまり感心しなかった。やはり短いがゆえに小粒ちゃんなのだ。
それはそれで成立しているから、とやかく言うことではない。これはぼく自身の好みの問題なのだ。こういう人間だから、ぼくはショート・ショートもあまり好まない。唯一ショート・ショートで感心したのは筒井康隆の「給水塔の幽霊」ぐらいか。
閑話休題。本書は短編だ。ミステリとしての結構を保ち、道具という縛りを設け(しかし、これはあまり効果をあげていない気がする)成立させるという試みは、難度の高い作業だ。でも、それがなんとなくわかってしまう。伏線が割とあらかさまなものが多く、中には専門的な知識がないと解けないものもあるが、おおむね予想がついてしまう。
この人は以前話題になった「教場」を読んだときも微妙だったんだよなー。合わないのかな。コンビニに寄ったとき、なんとなく興味引かれて買ってしまったのだが、あまり実のない感想になってしまった。
井上雅彦編「魔術師―異形アンソロジー タロット・ボックス〈2〉」
もう二十年以上前に刊行された本だから、存在自体が消えてしまっているよね。収録作は以下のとおり。
「魔術師」 芥川龍之介
「超自然におけるラヴクラフト」 朝松健
「わな」 H・S・ホワイトヘッド
「奇術師」 土岐到
「忍者明智十兵衛」 山田風太郎
「さびしい奇術師」 梶尾真治
「幻戯」 中井英夫
「花火」 江坂遊
「魔術師」 チャールズ・ボーモント
「手品師」 吉行淳之介
「劇場」 小松左京
「ハッサン・カンの妖術」 谷崎潤一郎
「ひわまり」 ラフカディオ・ハーン
いつものごとく、勉強になります。ほんと選者の造詣が深いとバラエティに富んだラインナップに驚かされる。この中に馴染みのない作家が一人いるんだけど、たぶん、これを読んでいるみなさんも知らない作家だと思うんだけど、その土岐到にしたって消息不明だっていうんだから、よくこんな作品掘り出してきたなあと感心してしまう。
何度も書くけど、ほんとこういう機会がないと一生読まないだろう作品ばかりで(風太郎は別ね。これは既読だったし)その顔触れに驚く。本書で二重に驚かされたのが芥川龍之介が谷崎潤一郎の短編をリスペクトして「魔術師」を書いていたってこと。こういうのって、広く網羅してないと気付かないもんね。
前回の「吊るされた男」ほどおもしろさはなかったんだけど、やはり読んでよかったと思わせる。アンソロジーって選者との相性あるよね。井上雅彦氏は、いい選者です。
チョン・セラン「地球でハナだけ」
ありえない設定なんだけど、その設定を組み込んだ上で構築されるストーリーの道行には、作者の人柄、思考が色濃く反映される。当たり前だよね。例えば、森で突然クマにであったら?というテーマで様々な人に物語を考えてもらったとしたら、ある人はリアルなシミュレーションでもってクマと人との死闘を描くかもしれないし、ある人は童話風にフレンドリーでこそばいクマと人との交流を描くかもしれない。またある人はそこに謎解きの要素を加え非現実な出来事が論理的に解明されるミステリを描くかもしれない。さて、ぼくならどうする?う~ん、そうだな、ぼくならクマは逃げてきたクマで人に飼われていたことにする。しかし、そのクマには特殊な能力があって、リス以外の生き物の考えていることがまるっとするっとすべてお見通しになってしまうことにする。一方、そこから20km離れたところにある図書館に住み着いているキジネコにも特殊な能力があって、この世に存在するあらゆる悪に対処する方法を知り尽くしているということにする。もう一匹、その町の地下排水網に棲みついている白いワニは自分の死以外の死を予言することができる…なんて話を考えたりする。
本書で描かれるのは、あるカップルの道行である。そこにありえない要素として『未知との遭遇』が加わってくる。でも、そこから拡がる世界はスペースワンダーでも、ミラクルファンタジーでもないから、おもしろい。別に予測の斜め上をゆく展開でもないのだが、そこでは人と人の営みがさまざまなアプローチで描かれる。さらにそこにエコロジカルな諸問題もからめ、地球に優しい接し方も考えてしまうようになる。
でも、一言で済ますならば、ここで描かれるのは一途な愛だ。至上の愛、尊い愛、無償の愛。人を愛してやまないストレートな感情が一直線に描かれる。しかし、そのLOVEビームの的になった人は戸惑うのである。そりゃ戸惑うよな、なんせ相手は〇〇〇なんだもの。それでも愛は打ち克つ。苦難、困難、艱難辛苦あらゆる障害を乗り越え尊い愛は、実を結ぶ。そして、さらにその先にいっちゃうのである。
本書は、清々しく爽やかに幕を閉じる。ささやかな笑顔と共に。幸せな読書ではないか。