読書の愉楽

本の紹介を中心にいろいろ書いております。

藤沢周平「蝉しぐれ」

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藤沢作品の中でも、もっとも多くの読者に愛されているのが本書ではないだろうか。

ドラマ化もされたし映画化もされた。ぼくはどちらも観てないが、観た人も多いのではないだろうか。

この本から受ける印象は人さまざまなのかもしれない。主人公、文四郎に等身大の自分を重ねあわせ青

春物としての薫陶を存分に受けるもよし、あるいは文四郎とふくの恋愛模様を中心に捉え、儚くてせつ

ない想いに身を焦がすもよし、はたまた時代物としての領分を存分に味わいつくし、武士の本分と剣の

道を極めるもよし、と藤沢作品本来のエッセンスが最良の形で凝縮された本書は如何様にも楽しめる作

品となっている。それは、この作品が如何に完成度の高いものかということを物語っている。

これをもって藤沢文学の代表作という気はさらさらないが、本書が一読忘れがたい作品であることは言を

俟たない。

海坂藩という自然の風物に恵まれた古き良き世界。そこでしずかに語られる一人の青年の苦悩と再生。

己を律するという現代人には皆無の倫理観が、痛いほど身に染みてくる。文四郎がどんな苦境に立たさ

れようとも、どんな逆境に倒されようとも己を信じ努力を重ね前に進んでゆく姿は、歯痒くもありくや

しくもある反面、心にストンと落ち着いて妙に心地がいい。ああ、自分にはまだこの気持ちを快く思う

部分があるのだと気づいて、うれしくなる。

封建制度という、いまでも根強く残っているこの融通のきかないものの所為で、いったいどれだけの人

が涙を流し、自分の気持ちを殺してきたのだろうか。武士の本懐が義にあるとすれば、人間としての尊

厳はいったいどうなるのか。

そういった義憤ともいうべきやり場のない怒りは、時代物には付物なのかもしれない。しかしその中で

義を重んじる武士の生き方にはとても魅力を感じたりもするのである。

矛盾しているかもしれないが、それが正直な気持ちだ。非情ともいえる武士の世界で精一杯張りつめて

生きる文四郎の姿に一喜一憂してしまうのも、その所為だろう。

とにかく、本書は素晴らしい。時代物云々ではなく小説としてこれほど共感をおぼえ、読後余韻にひた

る作品はめずらしいと思う。未読の方には強くオススメする次第である。