読書の愉楽

本の紹介を中心にいろいろ書いております。

猫は勘定に入れます。

股間を舐めながらスンヨは横柄に言った。

「ここまでこれたのも、みんなおれのおかげだろ?お前そこんとこよおくわかっとけよ!いまんとこ情勢

は落ち着いてるけど、いつまた急変するかわかんねえだろ?そしたら、またビビって、おれを頼ることに

なるんだからよ」

愛くるしい仕草とは似ても似つかない上から目線な言葉にたじろぐ。スンヨは、緑の目でこちらにチラチ

ラと鋭い目線を投げながら毛繕いに余念がない。

「しかし、これは奇跡だなぁ。こんな年寄りまでもが一緒に逃げてるのがまだ信じられんわい」

揺れる舟に二人と一匹。もう一人の逃亡者である長老の凡瑞(ぼんずい)が長い白髭を指でしごきながら

つぶやいた。

「もう追っ手はこないみたいですね、やはり舟には追いつけないってことでしょうか」沈黙が嫌なので思

ったことをそのまましゃべる。

「バカかお前!いまにみてろ、三、四十人の追っ手がすぐ川沿いに現れてくるはずだ。広い川だからどう

こうされることはないが、この先にある滝をうまくやり過ごせなかったら一巻の終わりだと思っとけ!」

最後の仕上げに耳の後ろまで顔を洗いながらスンヨが答える。黒灰のしなやかな身体がつやつやと光って

る。何度みてもきれいな猫だ。

「で、でも、滝なんてどうすればいいんですか?なんかいい方法でもあるんですか?」動揺しきった声が

出てしまう。

「いや、なにもすることはない。ただただ待つばかりじゃ」凡瑞長老が答える。

「し、しかし・・・・」

「うるせぇなぁ!じゃあ、お前なんかいい案でもあんのかよ!ねえだろうがよ!おれたちゃ舟に運命ゆだ

ねてんだよ!こいつ次第で生きるも死ぬも決まっちまうんだよ!そんな簡単なこともわかんねぇのかよ、

この坊っちゃんは!」猫に恫喝される気分は最悪だ。でも、いまはこの境遇を受け入れるしかない。

川は蛇行してゆっくり流れている。時々二、三メートルはありそうな大きな水鳥がグェッグェッと汚らし

く鳴きながら上を飛んでゆく。

右岸に人の気配がした。緑の下草を踏みしだいてカラフルな服を着た人達がわらわらと駆け寄ってくる。

「チッ!やっぱりな。もうきやがった!」スンヨが尻尾を太くしながら吠える。

「ど、どうすれば・・・・・」ぼくは自分で判断できない。どうすればいいのかわからない。

「みなさい、教祖もこられてるぞ」凡瑞長老の指差す方を見ると、極彩色の人々の中にただ一人真っ白な

オーブを着た男が長い灰色の髪を振り乱しながら駆け寄ってくるのが見えた。

「オシメ様・・・」

ぼくが思わずつぶやくと「ケッ!」とスンヨが唾を吐く。

「何が『オシメ様』だよ!あいつから逃げてきたんだろうが!お前、まだ未練があんのかよ!」

もちろん未練はあった。ぼくは教祖を慕っていた。彼の教えに心酔していた。縋るものは彼の教典だけだ

った。だが、そのために家族をなくした。だからぼくは彼の元をはなれた。

「みんな伏せろ!あいつら撃ってくるぞ!・・・・・・・・あ!」

それが最後に聞いたスンヨの言葉だった。ぼくは凡瑞長老に覆いかぶさるようにして舟底に身を伏せた。

銃声で耳が聞こえなくなった。目の前には血にまみれたスンヨの死体。

ぼくらはどんどん川を流された。やがて滝にさしかかり、喚声の中、ぼくたちをのせた舟は滝を落ちてい

った。