読書の愉楽

本の紹介を中心にいろいろ書いております。

キム・チュイ「小川」

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 ベトナム戦争が遺した負の遺産。戦争は、理不尽な運命をもたらす。抗えないその大きな力によって生が絶たれることもあるし、不自由ない暮らしから追いたてられ、流浪することになることもある。

 著者であるキム・チュイ女史はベトナム戦争の最中ボートピープルとなって後に家族と共にカナダに移民した。10歳の頃のことである。

 本書は、その著者の自叙伝みたいなものである。一人の女性の生い立ちが、短い章の連なりによって描かれてゆく。それは断片の集積だ。それはリアルな触感を残す。継続しないストーリーは、読んでいる者にまとまった一本の出来事として認識されずに切り取られた記憶の集まりとして、数多い出来事という錯覚にも似た感覚で取り込まれる。だから、こんなに薄い本なのに、豊かな質感と情報量が実感されるのだ。

 また、本書の時系列は一定していない。自叙伝みたいなものだと書いたが、単純に過去から現在へと遡上するのではなく、いったりきたりを繰り返す。それは、あたかも個人の記憶としてその人の人生を共有しているかのような錯覚を読む者にあたえる。整理された一連の出来事として処理されるのではなく、膨大な記憶がランダムに浮かびあがってくるような効果を生む。

 豊かな情感だ。熱い、寒いとかいうはっきりした質感ではなくて匂いや雰囲気のようなイメージを喚起させるような読み心地なのだ。

 そうして、ぼくたちはベトナム戦争というものを追体験することになる。ぼくらの世代にとって近くて遠いベトナム戦争が、よりいっそう肌身に感じるように思った。キムさん、あなたの言葉はぼくの唇に滑りこんできました。あなたたちの痕跡をぼくも一緒に辿りました。そう、呟いて温かい気持ちで本を閉じた。