読書の愉楽

本の紹介を中心にいろいろ書いております。

三田村信行「おとうさんがいっぱい」

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 児童書なのに恐怖とはいったいどんな感触なのだろう?と興味をもったので読んでみたのだが、なかなかおもしろかった。

 

 本書には五編収録されていて、それぞれが不安を中心に物語が構築され、最後にはブラックなオチがまっているという体裁だ。それでは各編かんたんに感想書いてみようか。




「ゆめであいましょう」

 

 ミキオは夢の中で、どこかで見たことのある家の前に立っている。中に入ると部屋の中に五、六人の人がいて、その真中にふとんがしいてあり、若い女の人が寝ており枕元には赤ん坊を抱いた夫らしき人がいた。ミキオはこの二人にも会ったことがある気がしたが、名前などは思いだせない。その赤ん坊はミキオと目が合うと激しく泣きだしてしまう。次の夜もミキオは夢の中であの家の前に立っている。しかし、その家は昨日みた夢のときよりみすぼらしく古ぼけていた。ミキオはそこで五歳くらいの男の子に出会う。

 

しかし男の子はミキオを恐れて逃げてしまう。

 

 こうして毎夜、ミキオは夢の中で男の子に出会う。夢をみるたびにその子は成長してゆく。これは読み始めてすぐに、ドッペルゲンガー物だなとわかってしまう。ラストには奈落が待っている。




「どこへもゆけない道」

 

 駅を出ていつもの道を帰りかけたぼく(この作品だけ一人称だ)は、気分を変えて、いつもと違う道から帰ってみようと思いつく。しかし、そうやって帰りついた家には・・・。
 まるで昔読んだ眉村卓の短編みたいな味わいだ。そこに少しブラッドベリ風の味付けがされている。




「ぼくは五階で」
 
 両親が共働きのナオキは団地に帰ってくる。置いてあったおやつを食べて、友だちと野球をするためグローブを持ってドアを開け外に出たが、そこは部屋の中だった。気を取り直して再び外へ出ようとするが、必ず部屋の中に戻ってしまうナオキ。そう、彼は永遠に団地の五○一号室に閉じ込められてしまったのである。
 ぼくはこの本の中で、これが一番怖かった。ラストのナオキの置かれた立場とそのイメージ。それと対照的なもう一つの場面。こんな残酷な結末はないんじゃない?




「おとうさんがいっぱい」

 

 これはタイトルのとおり、ある日突然お父さんの数が増えてしまうお話。増えるのはお父さんで、その数は家庭によってまちまち。中には増えない家庭もある。増えるところは十二人なんてとんでもない数になっているところもある。増えたおとうさんは、自分が本物だとそれぞれ主張し、取っ組みあいの喧嘩までする始末。事態を収拾するため政府は対策委員会を組織し不眠不休で解決策を打ちだすのだが・・・。

 

 なんとか事態は収束するが、最後にまた新たな問題がでてくるあたり非常にブラックだ。世にも奇妙な物語でドラマ化するとドンピシャな感じ。
 
「かべは知っていた」

 

 カズミの父は夫婦喧嘩の末、壁の中に入ってしまう。週刊誌の記事で壁の中で30年以上生き続けた男の話を読んで、自分もそれができると実行してしまったのだ。その記事によると壁の中にいると腹もすかず、病気にもならず排泄もしなくていいそうで、いわゆるそこは四次元の空間につながっているらしいのだ。父はカズミの目の前で壁の中に消えてしまう。それを見ていない母は、そのことを信じず家を出ていったとしか思っていない。やがて壁の中からカズミに父からの呼びかけが聞こえてくるのだが・・・。

 

 自分だけが抱える秘密と、それと折り合いをつけようとする努力。そして父を思う気持ち。いろんな感情が行間からにじみ出てくる作品だ。この話のラストは主人公が自ら判断をくだし、それを実行する。決してそれはハッピーエンドではないが、他の作品と違って本作の主人公は運命に翻弄されない。 

 

 というわけで五編読了したのだが、これは分類でいえばSFなのだ。ぼくはそこに筒井康隆のテイストを感じた。奇妙な出来事とそれが招くブラックなオチ。確かにこれを小学校くらいで読めば、けっこう心に重いしこりを残すことになるんじゃないかな?
 ウチの子に読ませたいなあ。