読書の愉楽

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フェルディナント・フォン・シーラッハ「禁忌」

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 前作の「コリーニ事件」を読んだのがちょうど二年前の7月だった。初の長編ということで、多大な期待を寄せて読んだのだが、そこで扱われている事件の謎がぼくの予想していたとおりの真相だったので少々肩すかしをくった。やはりシーラッハは短編向きの作家で、長編は少々荷が重いのかなと危惧していたのだが、この第二長編を読んでその懸念が払拭された。

 

 本書で扱われている事件は、まことに特異なもので、読む人によってはその真相のあまりにもミステリとかけはなれた内容に怒りだす向きもあるかもしれない。

 

 そうなのだ。法廷物であり、ミステリとしての体裁をとっていながらも本書の真相はミステリとしての結構を保っていない。だが、そうであっても本書は読む価値のあるミステリなのだ。

 

 ゼバスティアン・フォン・エッシュブルクは名家の御曹司として生まれ、その特異な感覚を活かして写真家として大成していたが、警察にかかってきた一本の電話によって、若い女性を誘拐した罪で逮捕されてしまう。その上、彼は事件を担当する刑事の取り調べで、その女性の殺害を自供。エッシュブルクは自分の弁護をビーグラーという弁護士に依頼。自供までしているが、まだ死体も見つかっていないこの奇妙な事件は、いったいどういう結末をむかえるのか。

 

 というのが本書の内容のあらまし。そう、ここで扱われる事件では被害者の行方が不明のままなのだ。

 

いったいエッシュブルクは被害者を殺害したのか?その自供が真実なら、いったい彼の動機はどこにあるのか?はじめてエッシュブルクと接見したビーグラーは「わたしが殺人犯ではないという前提で、あなたに弁護してもらいたいのです」という奇妙な言葉を聞かされる。それに対して本当は殺人を犯したのか?それとも犯してないのか?というビーグラーに「それは重要なことですか?」と逆に質問で答えるエッシュブルグ。

 

 なんとも人を食った話ではないか?少しづつ明らかにされるエッシュブルクの身辺。本書の前半では、このエッシュブルクの半生が描かれており、読者はすでに彼のバックグラウンドは認知していて、ここで語られる内容に当然のことながら真相の伏線がところどころ含まれていることもおぼろげながら認識している状態だ。そこにビーグラー弁護士は、真相をもとめて切り込んでゆく。さきほど事件のあらましを紹介した部分でエッシュブルクは『特異な感覚』をもっていると書いたが、彼は色彩認知において常人にはない共感覚をもっていて、書かれている文字にすら色彩を感じてしまうのだ。そして本編がはじまる前に書かれているヘルムホルツの色彩論の一節『緑と赤と青の光が同等にまざりあうとき、それは白に見える』という言葉。

 

 本書の章は四つに分かれていて、それぞれ緑、赤、青、白と表題がついている。緑でエッシュブルクの生い立ちが描かれ、赤で事件の発端が描かれ、青で事件の真偽を争う法廷場面が描かれる。そうして到達する白の章ではいったい何が描かれるのか?読者はなんの衒いもなくこの奇妙な事件の真相に到達する。

 

 なるほど、そういうことだったのか。だとすれば、ここで描かれた罪とはいったい何だったのか?なにより一番驚くのは一番最後に書かれている注記だ。そして作者シーラッハが日本の読者に向けて書いた巻末エッセイにとりあげられている良寛の俳句。

 

 それら全部、表紙も含めてすべてが重なりあって本書を演出している。事件のあらまし、真相、そしてそれら全部を内包する本という媒体。その全体の意味をなぞる時、読者は事件とオーバーラップするその演出に深く感銘を受けることになる。

 

 しかし、シーラッハはあまりにも研ぎ澄まされた鋭利ともいえる文章を書く作家であって、そこが大いなる魅力でもあるのだが、同時にそれが読者を選別する両刃の剣にもなっている。いやはや、なかなか一筋縄ではいかない作家なのですよ、この人は。

 

 それにしてもこれだけハイセンスな事件が起こるドイツという国は、いったいどういう国なんだろう。ほんと驚いてしまうよ、まったく。
 
 禁忌