読書の愉楽

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アレクサンダー・レルネット=ホレーニア「両シチリア連隊」

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 変な小説だ。すっごく変な小説だ。ま、扱われている歴史的事実にまるっきり白紙状態だったこちらの分が悪いのは百も承知だが、それを差っ引いても、なんとも人を食った話なのは間違いない。いや、これは貶してるのではなくて、感嘆してるんだよ。

 

 舞台となっているのは、第一次大戦オーストリア=ハンガリー帝国が崩壊したばかりのウィーン。大戦時に両シチリア連隊を率いていたロションヴィル大佐が美貌の娘ガブリエーレと共にある夜会に出席するところから物語は幕をあける。

 

 ぼく的には第一次大戦といえば、サラエボ事件をきっかけにして起こったヨーロッパが舞台の大きな戦争くらいのザックリとした認識しかなく、それがオーストリアと同盟国だったドイツとの間に深い溝を作ることになったことや、650年続いたハプスブルク家の崩壊につながっていたことなどはまったく知らない事実であり、ましてタイトルになっている『両シチリア連隊』の両ってなんなの?っていうかシチリアオーストリアがどう関係してるの?とわからないことだらけだったのである。

 

 そんな状態で読みすすめていったのだが、基本そういった知識はさして重要でもなかった。そりゃあそういうこと全部知った上で本書を読むとより格別楽しめるのだろうが、ストーリーを追う上でそれらのことは二の次みたいなものだった。

 

 ま、基本、本書はミステリなのである。奇妙な殺人が起こって、それをめぐって犯人と動機を追及していくのが主軸の物語だ。だが、ストーリーをすすめていく上でこの事件を総括してまとめあげ、謎を追っていく探偵役というものは存在しない。まずその点が本書をアンチ・ミステリといわしめている部分だと思うのだが、ラストに一応の解決をもたらす意味での探偵役は存在するが、最初から最後まで一貫して進行役をつとめる探偵はいないのである。物語の進行は『両シチリア連隊』の元隊員だった兵士たちの行動によって進められてゆく。そしてその中で浮かびあがってくるある人物の存在。これが入れかわりたちかわりアイデンティティを変化させて読者を幻惑させる。ある事実が語られ、しばらくしてその事実がまた違うシチュエーションで語られる。どちらが本当のことなのか?はて?さっきの話はいま語られているこの話と似通っているんじゃないか?え?彼が彼?あの人はこの人?うん?少し前に読んだところで書かれてあったことは、このことじゃないの?という具合に見事に翻弄されてしまうのである。それが積み重なり、その中で本筋には関係のない死の観念や運命論や哲学などの考察が挿入され、読者はさらに惑わされることになる。たとえばこんなくだり。
 『人がこれまで書いたものは、ほとんどすべてが、いまだ書かれないも同然のものだ。書かれたものすべては、書こうとしたことを書かなかった手紙のようなもの―――あるいはむしろ、書かれなかった手紙のようなものだ。』
 なんのこっちゃ?ぼくはこういった幻惑の記述を目のあたりにして、無限ループに陥ったかのごとく何度も同じ文章を読んでいる自分にハッとさせられた。そういうトラップを幾つもくぐり抜けてようやく到達した真相はこれまた驚くべきもので、ここで脱力するか感嘆するかは大いに意見の分かれるところだろう。ぼくはこれを読んでペルッツの「ボリバル侯爵」を思い出した。根っこのところではこの二冊は細長く繋がっているなと思うのである。そう一人の女性を巡る物語としてね。