読書の愉楽

本の紹介を中心にいろいろ書いております。

マイ・ラブリー・インフィニティ

 彼女は続く。かなりウルサク、よりいっそう煩わしい。鏡にうすく積もったホコリのような、遠い記憶の映像はよく見ようと手で払いのけると、その部分だけがくっきりとした跡になってハレーションを起こし、逆にわかりにくくなってしまう。


 学名 カナンガ・オドラタ バルサムの爽やかな樹脂系のスパイシーな香り、甘く官能的で独特だ。ぼくはこのイランイランの精油の香りが大好きだ。この香りを嗅ぐと、常態を逸脱した高次の域にまで、ぼくの意識は高められる。そして彼女はこの香りに引きよせられてぼくと・・・・・。小さな瓶のふたを開けると、揮発した香りが鼻腔にとび込んでくる。香りが届いた瞬間、ぼくの髪が一瞬で真っ白になる。太くて固いぼくの血管がにぶく光を放ちはじめる。

 川の真中にある猫の額ほどの小さな中州に建てられた掘立小屋では、ひとつの鍋を囲んで男たちが宴をひらいていた。煮られているのは犬だ。骨のついたブツ切りの肉が灰汁の浮いた鍋の中にごろごろ転がっている。ぼくはむさくるしい男たちに混じって脂ぎった肉を骨から喰いちぎっている。肉は少し筋ばっていて固い部分もあるが、滋味深く力強い味だった。彼女は小屋の外で待っている。清楚な彼女は犬など食べない。

 信号が赤から青に変わる。渡ろうとしたぼくの腕を後ろからつかむ誰かの手。いや、誰かじゃなくてこれは彼女の細い指だ。セックス依存症の彼女の指は、ぼくの腕をつかんだだけで巧みに官能を揺さぶる。

ほのかに香るベルガモットの芳香。彼女はシトラス。黒いタイツがセクシーだ。

 ソマリアのモスクの前に佇む彼女は、ラマダーンの間中この場所から動かない。ぼくも彼女に付き合ってここでテント暮らしだ。大いなる預言者ムハマンドの声が捨てられた空き缶の中から聞こえてくる。彼女の目が青く輝く。


 彼女は続く。かなり頻繁に、めまぐるしく。黒い髪、赤い髪、金色の髪、黒い目、青い目、緑の目。さや、あすか、みずき、ゆかり、けいこ、ジュリー、エイミー、シンディー、パトリシア。永久機関として機能する彼女。何度も死ぬ彼女。何度も笑う彼女。何度も怒る彼女。何度も泣く彼女。


 ウルシの繁茂する藪に入りこんでしまった彼女は、身体中がかぶれて腫れあがってしまった。アニマ、ぼくの大切なひと。ぼくはウルシの藪から出ようとする彼女を蹴って、さらに奥に追いやってやる。ぼくの愛がそうさせる。赤く腫れた肌を掻き毟る彼女。のたうちまわり、涙を流す。

 ハンプティ・ダンプティが落っこちた。彼女もいっしょに落っこちた。ハンプティは60人の男にも元に戻すことはできなかったが、彼女は復活した。ぼくの彼女、マイ・スイート・ハート。ぼくのバターカップ、愛しいひと。彼女は巡る。あらゆる時代を、あらゆる時を。