読書の愉楽

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麗羅「桜子は帰ってきたか」

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 敗戦の年、ソ連の対日宣戦布告に対し関東軍は潰走、満州にいた民間人は難民となる。征服者の立場だったのが一夜にして逆転、彼らは餓えや寒さや殺戮の危険にさらされることになる。散りぢりになる家族夫が妻を捨て、親が子を捨て、数多くの悲劇がうまれた。

 

 本書のタイトルにもなっている桜子はその混乱の最中、夫を殺され、献身的な誠意で仕える朝鮮人の青年クレとともに日本をめざす。だが、その決死行は三人の女性の介在によって暗転してゆく。三十六年後、日本に残されていた桜子の遺児、久能真人の前にクレがあらわれる。真人はそこではじめて満州で死んでいたと思っていた母がクレによって助けだされ密航船によって三人の女性とともに日本に向かったという事実を知る。母は日本に帰ってきたのか?真人はクレと共に母の消息を探るが、その身辺に不穏な空気が流れはじめる。

 

 第一回サントリーミステリー大賞読者賞を受賞した本作は堅実で安心して読めるミステリだ。全編を貫いているのは自らを犠牲に究極の献身をしめすクレの無償の愛。欲望も野心もない完全無欠の純真な愛情をしめすクレは一歩間違えると不気味な存在にもなりうるが、作者はそのさじ加減をうまく調整して読者に強烈な印象を残すことに成功している。

 

 ただ、遺児である真人の扱いがラスト近くで宙に浮いた状態になっているのが少し気になった。過去と現在をむすぶ犯罪の線も解明の過程はなく事実が向こうからやってくるという解決がミステリとしてのカタルシスを削いでいる。しかし、事実を先に提示し読者にある程度の予想をさせ、その期待を持続させたまま物語をすすめていく手法は成功しており、この興味だけで本書はもっているといえる。冒頭であらわれた死体は誰なのか?桜子は日本に帰ってきたのか?

 

 戦争の悲劇を描いた本書で、もう少し感動が味わえたなら傑作だとぼくも感じただろうと思う。しかし本書にその手の感傷はあまりない。隠された真実として、誰かの悲痛な思いなどが描かれていればよかったのかな。

 

 それでも本書はおもしろかった。まるで二時間のミステリードラマを観るようにスルスルとページが繰られていった。安心して読める堅実なミステリだった。