本書はなんの予備知識も持たずに読めば、なかなか翻弄されてしまう本なのだ。どういうことかというと本書は三つのパートに分かれていて、それぞれが独立したものとなっている。面白いのは、それがリンクし合っているとか、最後に円環が閉じる構成になっているとかではなくて、まったく別々の物語になっているというところなのだ。少し詳しく書いてみようか。
まず最初に『少年時代』という章があり、ここではスペインのバスク地方にあるオババ村を舞台にしたノスタルジックで少し不思議な物語群が配されている。ちなみに、オババコアックとはオババの人とか物という意味らしい。『少年時代』の章では五つのエピソードが語られる。不思議な出会いとたくらみを経験する少年や、白い猪になってしまう少年などの話である。
次は『ピジャメディアーナに捧げる九つの言葉』という章で、ここでは章題にあるとおり九にまつわる話と九つのエッセイ(?)が書かれている。疑問に思うのは、ここで舞台となっているのはオババ村ではなく、ピジャメディアーナというカスティーヤ地方の寒村。書き手である男はここに滞在し、いろんな体験をする。僻地ともいうべきさびれた村での村人との交遊はまるで冷たく凍った永久凍土を少しづつ溶かしていくようなもので、その本質に触れるにはかなりの時間と忍耐を用する。しかし、それによって報われる喜びも大きいのだ。
最後はまた舞台をオババ村に移した『最後の言葉を探して』という章。ここで物語はその本質をさらけ出す。ここでは耳に入り込むトカゲの謎と章題にもなっている一冊の本を一ページに収め、その一ページを一つの文にし、その文を一つの言葉にするという最後の言葉を追い求める試みと、独自の展開を見せる文学論の三本軸で話が進められてゆく。この章では文学という大きな枠組みの中での可能性の問題が繰り返し語られる。それはすでに確立された過去の文学をテキストとして引用し、いってみれば新しい酒を古い革袋に入れるような試みを繰り返すことによって先行作品を凌駕するような作品をも作り出してしまう可能性を語っている。これを剽窃といってしまえばそれまでだが、本書ではその行為を正統な文学の手法として肯定している。それはパロディでもなく盗作でもない。小説という創造の表現形式においてどれだけの可能性を求めることができるかという問いかけへの答えなのだ。
そしてこの章ではさまざまな試みとしてのいろんな短篇が挿入されている。それは登場人物たちが語る作中作として描かれるのだが、これがさほど完成度の高いものでもないのに結構楽しめる。物語に淫するような本好きマインドをくすぐる試みだからとても好意的に受け止めてしまうのだ。細かい部分ではまだまだ沢山の仕掛けを作者はばらまいているようだがそれは研究者にまかせるとして、このような形式の本を読んだことがなかったぼくは大いに刺激を受けたのである。はじめてのバスク文学、翻弄されたけど楽しめた。この人の本はもう少し読んでみたいなあ。