読書の愉楽

本の紹介を中心にいろいろ書いております。

アガサ・クリスティー「春にして君を離れ」

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 急病になった娘を見舞うためにバグダードに小旅行に出たジョーン・スカダモアはその帰路、トルコ鉄道の終着駅であるテル・アブ・ハミドで足止めを食ってしまう。天候不順のため列車が到着しないのだ。しかたなく彼女はそこの宿泊所で列車が到着するまで逗留することになるのだが、持ってきていた本は読みつくし、何もすることがなくなってしまう。そういえば、ここへくる途中の宿泊所で女学生時代の旧友ブランチ・ハガードに出会っていたのだが、あの時彼女、気になる一言を洩らしていた。「何日も何日も自分のことばかり考えてすごしたら、自分についてどんな新しい発見をすると思って?」

 

 思わぬ状況で自分自身を顧みる時間のできたジョーンは、過去の出来事を連想のおもむくまま、思いおこしてゆく。しかし、そうしてゆくにしたがって彼女は思わぬ事実に直面することになる。

 

 あの時の夫の言葉の意味、もう成人している子どもたちが自分にしめした態度、知人たちと過ごした日々の中で思い起こされる数々の場面。いろんな事を思い出すうちに、ジョーンはいままで幸せという名の虚飾に包まれた嘘の人生を送ってきたことを思い知る。

 

 クリスティのミステリでない小説を読むのはこれが初めてだが、本書の展開もかなりスリリングだ。自分と向き合うことでしか時間を過ごすことができない状況を作り、その舞台の上であまりにも巧妙なストーリーが展開される。

 

 ジョーンはその真実に自ら感づいていたはずなのに、居心地のいい今の状況を保持するためにその問題とわざと向き合わずにきてしまった自分の愚かさを噛み締めることになる。しかし、クリスティはそこで改心したというような安易なハッピーエンドに物語を導かない。さらに情け容赦なくジョーンを追いつめてゆく。ここらへん他人事ながら砂を噛むような思いで読みすすんだ。

 

 それにしてもぼくはジョーンの夫であるロドニーの立ち位置がとても気になってしまうのである。彼が妻に対して行う行為や心情の流れは到底理解できかねるものだと思うのだが。