読書の愉楽

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沼田まほかる「彼女がその名を知らない鳥たち」

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 一般的な常識を持ち、道徳、倫理的に人の道を外れていない普通の人々にとって、本書の内容は非常に不愉快なものである。なんせ、本書に登場する男女の誰一人として好きになれる人物がいないのだ。
 
 主人公は八年も前に別れた黒崎俊一という男のことが忘れられないでいる三十三歳の北川十和子という女性。彼女は寂しさをまぎらわすために十五歳も年上の佐野陣治という下品で粗野で貧相で卑屈で不潔で節操もない最低を絵に描いたような男と付き合い、同棲している。
 
 本書を読んでまず引いてしまうのは、この陣治という男の所作である。脂じみた作業着を身につけ、爪の中はいつも真っ黒、ものを食べる時は口を開けたままべちゃべちゃ音をさせ、ヘビースモーカーゆえの重い咳と痰吐きを繰り返し、小便をするたびに便器を汚し、一日に何十回も電話を掛けて所在を確かめてくる。正直、こんな男のどこがいいのか美点を探しても一向に見つからないのだが、十和子は陣治を嫌悪し、撥ね付けながらもずるずると離れることができないでいる。これぞ人間心理の不思議なのだ。嫌悪感しか呼び起こさない男であり、不浄で劣悪で最低で粘着質この上ない最悪な男のはずなのに陣治は無償の愛を十和子に捧げる。罵られ、蹴られ、激しく拒否されても尻尾を振る子犬のように十和子に献身する。それは、究極の愛の形でもある。見返りを求めない無心の愛。そんな普通じゃない日々がある出来事によって急展開をむかえる。
 
 ここから先は、気になった方が各自本書を読んで確認していただきたい。ある出来事と並行してもう一つの出来事が起こり、その二つが物語を急速にありえないラストへと導いてゆくのである。それは究極の愛の形であり、ここで本書で描かれた世界は鮮やかに反転することになる。

 

 どうか、不愉快だとしても本書は最後まで読んでいただきたい。作者が用意した物語の結末には正直ぼく自身納得できない部分もあるのだが、しかしこの世界の反転は一読の価値がある。ここへきて読者は少なからず溜飲を下げることになるのだ。

 

 最後にひとこと書いておきたいのだが陣治が折に触れて語る幼少の頃の話に激しく心を揺さぶられた。このエピソードだけでも充分小説の題材になる充実した話ばかりだと思うのだが、どうだろうか?