読書の愉楽

本の紹介を中心にいろいろ書いております。

迷い子

 県境にある大きな橋まで30分。ぼくたちは無言で車に揺られていた。途中、蛇行する川のほとりにある 小さなバラック小屋に寄って、じゃい吉じいさんの様子を見る。いつものとおり、じいさんはぷっくり膨らんだ腹から膿を排出するゴム製のドレンを垂らして眠りこんでいた。

 隊長の三島さんが声をかける。ぼくと同僚の太宰は少しうしろでその様子を眺めている。

 「じゃい吉さん、具合はどうだい?相変わらずか?」


 それを聞くとじいさんは、一本しか歯の残っていない口を大きくあけて「ああ、見てのとおりさ。おらぁ、相も変わらず膿袋やってるよ」と言って、カカカと笑った。

 里にいる娘が毎日様子を見にきてることはわかっているのだが、生活保安保護課としてもこういった一人暮らしの年寄りや、身寄りのない人々の動静は常に把握しておかなければならない。

 「ほんに、いつもいつもありがとよ。気にかけてもらってるだけで、おらぁ、うれしいよ」そういってじいさんは鼻をすすりあげる。あんまり長居すると、愁嘆場みたいになってしまうので、ぼくたちはそそくさとその場を後にする。

 再び車上の人となったぼくたちは、また無言になる。運転している太宰は細い山道に気をとられて、それどころではないし、助手席の三島さんは腕を組んで瞑想している。仕方なくぼくは過ぎゆく景色を見ながら、これから出くわすことになるだろう悲劇に思いをめぐらせた。

 連絡が入ったのは昨日の閉庁間際の午後五時。県境の大橋付近でみすぼらしい格好をした三歳くらいの女の子が一人でフラフラと歩いていたというのである。とりあえず受理した事実はファイリングしておいて、一夜明けてしまったが、今日ようやく現地調査にやってきたというわけなのだ。

 以前からあの大橋は不法投棄やホームレスが住みついたりして、我が課とはつながりの深い場所だった。こうやって現地に向かう事も月に二、三回はある。おそらく今回もそういった身寄りのない人がそこに住みついてしまっているのだろう。

 大橋のたもとに車を止めたぼくたちは、辺りに目を配りながら橋の下にもぐりこんだ。ちょうど橋台と橋の間に居住可能なスペースがあるのである。薄暗い橋の下は川から立ち上ってくる生臭い匂いと、じめじめした湿気があいまって、とても快適とは縁遠い空間になっている。まずは隊長がもぐりこんだ。太宰が、何か見えますか?と声をかける。

 「いや、何もない。誰もいないな」そういってゴソゴソ出てきた三島さんの頭にはホコリや蜘蛛の巣がたんまりついていた。

 おかしい。大抵この場所を見れば何か見つかるのだ。昨日の通報は何かの見間違いか誤報だったのだろうか。再び地上に戻ったぼくたちは、思案した。誤報だったらそれでいいのだが、それが確信できるまで戻ることはできない。今度は橋のまわりを捜索することになった。

 そのとき太宰が大きな声を挙げた。

 「あそこ!あれ怪しくないですか」

 彼の指差す先には銀杏の木の陰になった小さな道具小屋があった。ここへ来たときは橋の下ばかり見ていたので、そこにそんな小屋があることなどいままで知りもしなかった。

 トタンで囲われた小屋はいまにも朽ち果てようとしているように見えた。隊長が戸を引き開けると、そこには白い物体が横たわっていた。いや、それは女性の背中だった。プーンと甘ったるい腐臭が漂う。

 横たわった女性はあきらかに死んでいた。そして、その隣に小さな女の子が座って怯えた眼でこちらを見上げていた。母と娘なのだろう。どうしてこんなことになってしまったのか。ぼくは、この女の子の境遇を思って泣いた。まさに嗚咽がこみ上げてきて前も見えなくなってしまった。この可愛らしい少女はどんな思いをしてきたのだろう。死んでしまった母親のそばで、どれだけ心細かったことだろう。もう、大丈夫だよ。ぼくたちが助けてあげるよ。そう、思いながらぼくは、ずっと泣き続けていた。