眠りから覚めると、ぼくは死にかけている牝鹿に寄り添っていた。お互い下半身を湖に浸けた状態で横た
わっており、静かな木漏れ陽がぼくたちに降りそそいでいた。ぼくは少し身を起こし、あらためて鹿の大
きな身体を見渡した。強い毛が手のひらにざらつき、噎せかえるような獣臭が脳天を直撃する。
鹿は涙にうるんだ目をこちらに向けて膜のかかったような瞳で見つめている。
弱弱しく上下する横腹に顔を寄せて、ぼくは少し官能的な気分で鹿の死を見届けてようとする。
ざらざらした毛皮の下にあるはりつめた筋肉とゴツゴツした骨、普段ふれることのない大きな獣の肢体は
圧倒的な質量をもってぼくを包み込む。
しかし、鹿は死にかけていた。目だった外傷もないし、血を流してもいない。いったい何がこの美しい生
き物の命を奪おうとしているのか。
やがて大きく動いていた横腹の振幅がゆっくりしたものになってきた。いよいよか。
不思議と悲しみの感情はなかった。ぼくは静かにこの生き物の最後を看取ろうとしていた。
だが、鹿は死ねなかった。彼女はまだ死ぬことができない。なぜなら、彼女の魂はまだ地上に縛られたま
まなのだ。
それを解放するのはぼくの役目だった。
ぼくは腰に吊り下げている鞘から大振りのナイフを取り出し、フイゴのように上下している鹿の横腹にゆ
っくり近づけた。下から四番目と五番目の肋骨の間に切っ先を当てる。そしてナイフの柄に左手をそえて
一気に押し込む。強靭な毛皮の抵抗があったが、それをやぶると刃はスルスルと鹿の体内に滑り込んでい
った。それと共に激しい痙攣が彼女を襲う。異物の進入による短いショックのあと、心臓に達したナイフ
によって、牝鹿は地上の束縛から解放された。
急速に冷えていく鹿の身体からナイフを抜こうとするが、筋肉が刃をがっちりくわえこんでおり、ぼく一
人の力では抜くことができなかった。
ぼくの気持ちはこれ以上ないほどの充足を得て、満ち足りていた。死を受け入れた牝鹿は、鼻と口から血
を流していた。見開かれた目はとてもやさしい。死してなお、牝鹿はぼくに恵みをもたらしていた。
黒い友達よ、さようなら。きみの幸せをぼくは願う。やがて辛い季節が過ぎ、恵みの春が訪れる。そうす
れば、すべての生きとし生けるものに幸せがふりそそぐだろう。