ようやく追いついたのだが、肩に手をかけたぼくを振り返ったのは見知らぬ女の人だった。てっきり妻だ
と思っていたのに、いったいこれはどういうことだ?しかも、その女の人は顔の造作が常人離れしていて
目、鼻、口が顔の中央に寄せ集められていたので、目を合わせた途端ぼくは激しく動揺してしまった。
「す、す、すいません。間違えました」とりあえず謝っておく。しかし、その女性はサイコロの一の目の
ような顔を怒らせて、憤慨おさまらぬ様子。
「申し訳ありませんでした。後姿が妻に似ていたもので、すっかり間違えてしまいました」
そうこうしているうちに、あたりに霧がたちこめてくる。街の喧騒が遠のき、空気にイオンが満ち、カッ
コーが鳴き、霧を透かして木立が見えてくる。
女性に視線を戻すと、激しく頷いている。ライブの立てノリ状態だ。身体は微動だにせず、頭だけを激し
く動かしている。ぼくは女性をその場に残し歩きだす。静かな気配に満ちた森の中だ。ポケットを探ると
小さなみかんが出てきたので、皮をむきながら散策する。小さなみかんなので一口で食べられる。甘みと
酸味が絶妙なうまさだ。
目の端を大きなトランプの兵隊がよぎったような気がしたが、そちらに目をやると何もない。もしかして
ここはアリスの世界なのか?まさかね。ぼくにはそんなメルヒェンチックな趣味はない。だからアリスな
んてありえない。しかし、確かにさっき目の端に見えたのは大きなクローバーの8だった。
やがて霧がうすれていき、あたりの風景が見えてきた。あ、ここはぼくが8歳のときに行ったことのある
父さんが足に怪我をした山道だ。あの日、ぼくたち家族はここへハイキングにきた。楽しい一日がまたた
く間に過ぎ去って、帰途の途上いきなり父が派手に転んだ。何もないところでだ。なぜか父はふくらはぎ
を切り裂かれていて、血がなかなか止まらなかった。あのとき父は、黒いハチがとうわ言のように言って
いたが、もしかしてあれはクローバーの8のことだったのだろうか?
そのようなことを考えながら、ぼくはみかんの甘みの余韻を楽しんでいた。
父は、もうこの世にいない。だから、あのときの真相は霧の中だ。