やはりフランスには怪物が多いのである。サド、バタイユ、ジュネ、セリーヌ、マンディアルグの系譜に連なる新たなる暗黒文学の精華が本書「ネクロフィリア」なのである。
ここで、忠告。以下、本書に関するぼくなりの感想を書いていきますが、扱っている題材が題材ゆえ、不快感を与える記述も出てまいります。それでも読もうと思われる方のみ続けてお読み下さい。
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というわけで本題に入ろう。「ネクロフィリア」とは、わかる人にはわかると思われるが、屍体愛好者のことである。
そう、本書は屍体しか愛すことのできない男の日常を日記の形式で記述した小説なのである。この男、幼い頃の母親との死別の際に体験したある出来事から、屍体にしか情欲を満たされない性質になってしまったのだ。そんな彼が、定期的に墓場に行き埋葬されたばかりの屍を掘りだして、自分のアパルトマンに引きこもりあまりにも不埒な悦びを満喫するのである。それは女性に限ったことではない。老若男女なんでもこいだ。あるときは、白髪の老婆の豊満で死斑の浮いた乳房に顔を埋め、あるときは壮健な男の筋骨たくましい身体に添い寝し、またあるときは幼い男の子の天使のような冷たい肌に慄くのである。やがて屍体は自然の摂理にしたがって崩壊してゆく。腹腔に腐敗ガスがたまり、均整を解かれた細胞はあらゆる液体を放出し、耐え難い臭気を辺りに撒き散らし、色も形も原型を留めないほどに崩れてゆく。それさえも主人公リュシアンにとっては愉悦の極みなのだ。
リュシアンは、屍体愛好こそが唯一純粋な愛の形だと信じている。見返りを求めないことが究極の愛の形なら、代償を求めない形だけの屍体を愛でる屍体愛好こそがもっともそれに近いものだと。
本書を読んでると、この禍々しい行為が美しく崇高なものにさえ映ってくるから不思議だ。それはリュシアンが、単なる性欲のはけ口として屍体を陵辱しているのではないということが伝わってくるからなのだろう。彼は『死』そのものに対する憧憬を屍体愛好という行為によって、少しでも現実のものにしようと足掻いているのだ。『死』に見入られ、『死』と添い寝する男。だが、彼の崇高な行いには黒い影が忍びよる。ネクロフィリアは、世には受け入れられない存在なのだ。さて、彼の運命やいかに。
最後にもう一言。本書の著者ガブリエル・ヴィットコップは女性であるということを申し添えておこう。