路地裏は、意外と清潔だった。大抵こういう場所は病原菌の温床のようなジメジメして臭い場所というイ
メージがあるが、ここは乾いていて臭いもなくとても快適だった。私はさっきから、垂れおちてくる鼻水
を懸命に手の甲でこすりとっているところだ。なぜだかわからないが、鼻水が後から後から溢れ出してく
る。問題の部屋は三階の右から三番目の部屋だった。見上げても、室内の明かりがもれているのがわかる
だけで、当然のことながら内部のことはわからない。非常階段を探したが、この建物には付いてないよう
だ。私はもう一度鼻水をこすりとってから、視線を前に戻した。
男は、不意を突かれたように驚いて目を見開いた。さっきまで激しく鼻をこすっていた手の甲が濡れて光
っている。女は口元に笑みを張り付かせたまま、男に向かって早足で歩いていった。彼女の右手には鋭利
なナイフ。それを認めた男がハッと身を硬くする。
私は、咄嗟のことに判断がにぶっていた。いわゆるパニックというやつだ。歴戦練磨と自負していた昨日
までの自分が腹立だしい。この殺意丸出しの女はもしかするとあの時の?
女の身体が男に激しくぶつかる。目を見開く男。女は口元の笑みをさらに広げ右手のナイフの柄に左手を
重ね、抉るように突き上げた。確かな感触。腕にふりかかる熱い血潮。
不覚だ。腹に灼熱の衝撃。足の力が抜け、膝がくず折れる。熱い衝撃は、ショックとなって身体を駆け巡
り、一瞬目が見えなくなる。痛い。まるで腹を食い破られているみたいだ。私は死んでしまうのだ
ろうか。熱い血潮とともに私の命が身体から抜け出てゆく。この女、まだ笑ってやがる。
ナイフに男の全体重がかかって、耐え切れなくなった女は両手を離した。右手と腹の部分が男の血で真っ
赤になっている。女はまだ痙攣している男を跨ぎこすと夜の街中に消えていった。
どうにもできない。私は死んでしまうんだろう。私を跨ぎこしていった女の白くて小さいパンティが見え
たような気がした。最後のお願いを聞いてくださいますか神様。背中がかゆいんです。どうか、どうか背
中のかゆみを取り除いてください。そして、安らかな死を私に。
街の片隅で男が死に、それを眺めていた一匹の猫が静かに顔を洗っていた。