読書の愉楽

本の紹介を中心にいろいろ書いております。

セオドア・ローザック「フリッカー、あるいは映画の魔」

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 この本も以前に一度紹介した。二年前のことだ。

 

 しかし、いま一度この本の凄さをここで力説したいと思う。本書が刊行されたのは1998年。憶えておられる方も多いかと思うが、本書はその年の『このミス』海外部門の1位に輝いた。別に『このミス』の評価を至上とするつもりはないのだが、いままで一度も翻訳されてない作者の作品で、鳴り物入りで刊行されたわけでもないのに、読書の達人たちがこぞって絶賛してるとなれば、これは本好きにとってとても気になるのではないか?ぼくは刊行された当初にこの高い単行本を衝動買いしてしまったのだが、いまでは買ってよかったと心底思っている。当然本書はすでに文庫化されているので、これから読もうと思われる方がおられれば、もっと安く手に入るのでご安心を。もしかすると、もう品切れになってるかもしれないので、古本でなら上下巻200円で手に入るかもしれない^^。

 

 そんなことはおいといて、では本書がいったいどんな本なのか、なのである。

 

 はっきりいって、ぼくも読み始めるまでどんな話なのかまるで予測できなかった。オビには『「サンセット大通り」と「薔薇の名前」が出会った!映画史トリビア的壮大なゴシック・ミステリー』なんて書いてある。

 

 いったい、なんじゃらほい。どういうこったい?これでは輪郭さえもつかめない。でも、なんだかおもしろそうな匂いはプンプンしてるのである。どうやら、映画とオカルトが結びついた話らしい。でも、どうして映画とオカルトが結びつくんだろう?映画が怖いとはどういうことなのか。

 

 読んで氷解。こういうことか。

 

 ここで描かれるのはマックス・キャッスルという一人の映画監督の謎である。この魔物めいた監督に魅入られた青年が謎を追い絡めとられていくのである。謎が謎をよび、果てはテンプル騎士団や異端カタリ派にまで話は広がっていく。

 

 この作者は、まったく未知の人なのだが堂に入った大ボラ吹きである。

 

 これは、悪い意味ではない。小説というのは騙りの技術であり、大ボラをまことしやかに語り、それが大ボラでなくなった時に真のおもしろさが伝わってくるのである。

 

 その点、この作者は確かな技量をもっている。小説のもつ魔力にからめとられてしまった。映画に関する知識も生半可なものでなく、微に入り細をうがったもので、映画の技術的なものも含めてまことに勉強になった。

 

 映画とオカルトなんて、はじめは水と油くらい反するもののように思っていたが、なるほどこんな料理の仕方があったのかと目からウロコだった。

 

 歴史の闇はまだまだ暗く、光のささない不可視の部分が多い。

 

 本書のような傑作が生まれる余地も多いということだ。

 

 先にも書いたように本書は1998年に出版された。だがそれ以降この作者の翻訳は出ていない。この不気味な探偵小説でもあり、中世の異教オカルトでもあり、黙示録的スリラーでもある本書のような傑作をまた書いて欲しいものだと願っているのがぼくだけじゃないってことは、本書を読んだ方ならわかってくれることだろうと思う。それほどに本書は傑作なのだ。