ディヴァインはその昔、まだ現代教養文庫が「ミステリボックス」と銘打って翻訳ミステリを出していた頃に話題になった作家である。ミーハーなぼくは、その当時それだけ評判がいいならと「兄の殺人者」と「五番目のコード」の二冊は購入してあったのだが、例のごとくいまだ読んでいない。同じくしてマイクル・イネスの「ある詩人への挽歌」も読めていない。さらに言うならセイヤーズの「ナイン・テイラーズ」、ロースン「帽子から飛び出した死」、フィルポッツ「赤毛のレドメイン家」、クリスピン「お楽しみの埋葬」なんかの凄そうな作品群もまったく読めてない。この歳になると、いまさらという諦観に近い感情が優先して、こういった古典ミステリの傑作といわれる作品に手を伸ばすことに消極的になってしまうのである。これではいかんと思うのだが、世におもしろそうな本は山とあるのでミステリにしろSFにしろ、どうも極めるという域に達することができないでいる。これもジャンルを絞り込めない欲張りな性格ゆえの哀しいジレンマなのだ。
とまあ、戯言はこれぐらいにして本書はディヴァインの長編第五作。いってみれば作家としてもっとも脂ののった時期に書かれた作品だといえるだろう。
物語の舞台は大学だ。ここで描かれる殺人は決して派手なものではない。きわめてオーソドックスな殺人でそういった意味ではそこに奇妙な謎もトリックの妙味も存在しない。
いわゆる本書の眼目はフーダニットである。いったい誰が犯行におよんだのか?最終的には容疑者は五人にまで絞られる。しかし、わからない。いったい誰が暗躍している犯人なのか?誰もが犯人に見えるなんていうクリスチアナ・ブランドが得意としたファルス的状況に陥らなかったのが残念だが、決め手となる事実が最後の最後まで出てこなかったので、やっぱりぼくにはわからなかった。ミステリとしてのカタルシスはいささか弱めなのだが、犯人の意外性はなかなかのものである。
そうするとタイトルの「悪魔がすぐそこに」という意味が十二分に理解され、あらためて背筋が寒くなるということなのだ。
仰々しいトリックの妙味や雰囲気で酔わせるケレン味はないけれども、純粋な推理物としてのおもしろさは期待以上だった。驚いたのは本書が書かれたのが1966年だというのに、いま読んでもまったく古臭さを感じさせなかったことだ。たとえ本書が今年書かれた新刊書だといわれたとしても、まったく違和感のない読み応えだった。
というわけで初めてのディヴァインはなかなかの好感触。これからも彼の作品は読んでいきたいと思う。
さしずめ本書は秋の夜長にぴったりのミステリといえるだろう。ゆっくり、じっくり堪能したいミステリの佳作である。