読書の愉楽

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ウェンディ・ムーア「解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯」

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 本書を読んで感じるのは、一人の男の溢れんばかりの情熱である。それは狂気にも似た熱狂であって、常人の目から見れば常軌を逸していると映っても仕方がないものだ。

 

 しかし、18世紀という暗黒時代に毛の生えたような医療の黎明期にあって、このジョン・ハンターの成しえたことはまったくもって偉業としか言い得ないものであった。

 

 彼は生きとし生けるものすべての大きなカラクリの謎を解こうとした。人体や動物の身体を切り刻み、その当時において最先端の医学的発見をもたらした。宗教観念に凝り固まった人々の度肝を抜く理論を展開し、ダーウィンが「種の起源」を発表する七十年も前に『生き物の起源』という概念を発表していた。これはジョン・ハンターの進化論であり、神が七日間でこの世界を創造し、アダムとイヴから人類が発生したと信じられていた当時としては、宗教自体を冒涜する恐るべき考えであった。

 

 常に疑問を持ち、自分の頭で考えて行動する彼の姿勢が素晴らしい。この時代の医療事情は、いまでは信じられないくらい杜撰なもので、病気になれば瀉血と嘔吐と浣腸の繰り返し。人体の仕組みなどを理解しようという概念もなく、外科の仕事は床屋のする不浄な仕事と考えられていた時代である。

 

 そんな時代にあってジョン・ハンターの残した業績は、目を瞠るものがある。彼は、生まれる時代を間違えた男なのだ。だが、そんな目覚しい活躍をした彼の生涯をかけたエピソードを読んでいくと、これが無類におもしろい読み物になっていることに驚いてしまう。どうして、真摯に医療を向上させようとする男の生涯がおもしろいのか?

 

 それは、このジョン・ハンターが大いなる奇人だからである。彼は熱狂的な解剖マニアであり、狂信的な蒐集家でもあった。彼の解剖好きは一歩間違えれば猟奇殺人鬼にも通ずる偏執的な一面を持っており、それを紙一重で救っているのは、やはり彼の純粋な探究心なのである。人体の仕組みを知りたい。病理の仕組みを解き明かしたい。動物や昆虫の知られざる機能を見極めたい。それらのほんとうに純粋な探求心をもって彼はメスを握った。また古今東西のめずらしい動植物の標本や剥製、人体の病理組織の標本や奇形の標本などなどを異常な執念で死ぬまで蒐集し続けた。その成果は一万四千点にものぼったそうだが、いまでは戦争や時間の経過に耐えられなくなって三千五百点ほどがハンテリアン博物館に所蔵されているそうである。まあ後にも先にもこれほどの奇人ぶりを発揮した人物は出てこないだろう。

 

 とにかく、本書は真面目な医学史的読み物であるにも関わらず無類におもしろい伝記である。こんな傑物がいたのをいままで知らなかったなんて、いったいぼくは何を読んできたのだろうと思ってしまったくらいだ。この本に出会えてほんと良かった。



 最後に、みなさんも気になっていると思うのでここで言及しておこうと思うのだが、表紙に描かれているちょっとグロテスクな絵は、ハンターが解剖した『子宮内にいる出産直前の胎児』の絵である。いったいどうやってこんな状態の解剖が可能になったのかは本書にもちゃんと書かれてあります。