読書の愉楽

本の紹介を中心にいろいろ書いております。

捨てられる子

 地下街は初めてだった。地面の下にこんなに明るくてきれいな店がたくさんあって、こんなに多くの人がいるなんてまったく知らなかった。

 ぼくは母に手をひかれて駆けるように歩いてる。見上げた母の顔はいつもと違ってとても険しく、化粧もいつもより濃い感じがしてなんだか別人みたいだった。

 どうして母さんは、こんなに早く歩いてるんだろう?

 どうしてこんなところに来たんだろう?

 どうして、怒った顔をしてるんだろう?

 数々の疑問が頭をよぎるが、ぼくの口からその質問が出ることはなかった。なぜなら、母さんが身体のまわりに見えないバリアをはりめぐらせていたからだ。

 知ってるんだ。お父さんと喧嘩したとき、母さんはこの見えないバリアをはってしまう。そうすると、ぼくが何を言っても応えてくれないんだ。

 母さんは半ば走るように早足で先を急いでる。そんなに急いで何処へ行くんだろうか?

 でも、それはすぐにわかった。母さんは『ヒロタのシュークリーム』屋さんの前までくるとそこで一箱シュークリ-ムを買い求めぼくに手渡した。

「これ持ってあの噴水のところで待ってて。お腹が空いたらこれ食べてていいから」

 そう言って母さんが指差した先には円形のプールの真ん中に水盤のあるこじんまりした噴水があった。何人かの人がそこで談笑している。不安になったぼくは母さんにたずねた。

「ぼく一人で待ってるの?」

「そうよ、一人で待てるでしょ?お母さん用事すませたら、すぐ戻ってくるから」

 母さんの目が怖かった。充血していて、どこか虚ろなのにとても切実な感じがした。

「ね、言うこときいてちょうだい。困らせないで」

 知らない人に混じって、たった一人で母を待ってるなんて心細くて泣きそうだったが、必死の形相の母に気圧されてぼくはコクンと頷いてしまった。

「いい子ね。すぐ済むから、ここでじっと待っててね」

 そう言うと母は小走りにもと来た方向へ去っていった。

 ぼくは噴水の縁に腰掛けて、なんとなく水の中をのぞきこんだ。透明な水の底にはいろんな硬貨が沈んでいて照明にきらきらと反射していた。どうしてこんなにたくさんのお金が噴水の中に落ちてるんだろう?

 まわりにいる人はお金が落ちていることなど気にもとめていない。手を伸ばして取ろうと思ったが、服が濡れてしまうんじゃないかと気づいて思い止まった。だって服を汚したら、母さん怒るもんな。

 どれくらい時間経ったかな?お母さんすぐって言ってたから、もう戻ってくるかな?

 そんなことを考えていると、知らないおじさんが声をかけてきた。

「ぼく、一人かい?」

 一瞬、顔が強張る。だって知らない人と口きいちゃいけないって母さん言ってたから。でも、一人で心細かったぼくはおじさんに大きく頷いて、こう言った。

「うん、そうだよ。いま母さんを待ってるとこ」

 それを聞くとおじさんは目を見開いて驚いた表情になったけど、すぐに元の顔に戻して

「なんだ、そうかい。迷子だったらいけないなと思って声かけてみたんだよ」

 そう言いながら首筋の汗をハンカチでごしごし拭いた。その仕草がどこか不自然で、なんだか焦ってるみたいだと思った。

「じゃあ、賢くここで待ってなよ」おじさんは逃げるように離れて行ってしまった。

 不安感がつのる。おちんちんのあたりがムズムズしてきて、おしっこに行きたいような気持ちになる。

 母さんまだかな?すぐって言ったのに、もうずいぶん時間がたってるんじゃないか?

 もうそこまで来てるかもしれないと思って、まわりを見渡す。いない。母さんはいない。

 首を巡らして、まわりを見てると色んな人と目が合った。

 みんなぼくを見ていた。でもどこか遠巻きに眺めるような感じで、決して近づこうとはしてこない。

 なんだかぼくは、自分がとても汚いものかとても怖いものになったような気分だった。

 まだかな、母さん。不安感はふくらむばっかりで、まったく消えてくれなかった。ほんとにお母さん戻ってくるのかな?まさか、ぼくをおいてかないよね?お母さん戻ってくるよね?

 ぼくはシュークリームの箱を抱えたまま、母さんを待ち続けた。頭の片隅では、母さんは二度と戻ってこないことがわかっていたにも関わらず。