読書の愉楽

本の紹介を中心にいろいろ書いております。

大岡昇平「事件」

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 『ありふれた』といってはなんだが、どこにでもあるような単純な殺人事件が起きる。神奈川県の田舎町で十九歳の少年が、結婚に反対する恋人の姉を刺殺したのだ。ほどなくその少年は逮捕され、事件をめぐる裁判が開始される。検察側と弁護側の主張は当然のごとく食い違う。

 検察側は、用意周到な計画殺人と死体遺棄で起訴。対する弁護側は傷害致死を主張。

 当初それほど複雑な事件に見えなかったこの裁判は、しかし公判を重ねるにつれて見えなかった事実が次々にあらわれて局面が劇的に変化してゆく。

 いったい容疑者の少年に殺意はあったのか?なかったのか?

 本書は著者大岡昇平が裁判の実情を詳細に描き、ミステリとしても高く評価され日本推理作家協会賞を受賞した傑作リーガルミステリである。

 限りなくリアルに再現される法廷描写。ノンフィクションと見紛うかのような実直ともいえる筆勢。そう書くといかにも本書は敷居が高く、とっつきにくい印象を受けるかもしれないが、そういう心配は皆無である。

 確かに本書は事件の発端から容疑者が裁かれる過程までを克明に描写し、まさにドキュメンタリーのような信憑性を感じさせる作風ではある。でも、作者が作中で裁判のことを『ペリイ・メイスンの活躍するテレビ・ドラマのように劇的に進行するものではない』と書いているにも関わらず、新たな事実が発覚して局面が変化していくさまは充分にドラマティックで読者の興をつないではなさないのだ。

 本書の眼目は当時の裁判のリアルな再現と、裁判によって真実は見極めることができるのかという究極の命題に作者なりの答えを出すことにある。

 裁かれる者と裁く者。両者の間には様々な思惑と虚飾と圧力と、そしてたった一つの真実が介在する。罪の重さを断定するという人生を左右する秤を、裁判官はどういう気持ちで傾けているのだろうか。

 本書では裁判の結果のあとにまだ余韻を残して話は続いてゆく。

 いったい、実際に起こった事件と法廷で暴かれた事件の間には差異はあるのだろうか?その真実は読んで確認して頂きたい。