人間の存在価値、原罪、罪を許す心。
周知のとおり著者の三浦綾子はプロテスタントのクリスチャンである。
ぼくはといえば、宗教心のかけらもない男である。神様なんてまったく信じていない。
でも、そんなぼくでも本書を読んでキリスト教のおしえが少しわかったような気がした。
キリスト教は愛の宗教である、と言われている。妻を愛しなさい。子を愛しなさい。隣人を愛しなさい
。愛こそすべて。
しかし、上っ面だけの教義なんて知っていてもぜんぜん気にもとめない。それは、もっともなことだと
思うが、それ以上深く考えたりしない。
ところが、本書を読んでぼくは深く考えてしまったのである。
自分の在り方について、生き方について、考え方について、人との接し方について。
ドラマでも有名だろうし、本書のストーリーもおおかたの人はご存知だろう。
あまりにも罪深いストーリーだ。こんなことに直面させられたら、いったい自分はどうなってしまうん
だろうと、おろおろ取り乱してしまうくらい平静でいられなくなる物語だ。
本書に描かれている人たちは、あまりにも哀しい。陽子を中心として、まわりの人たちがそれぞれなん
らかの罪、秘密、憎悪を胸に抱いている。
本書ほど無償の愛というものを教えてくれる本はないと思う。それは、ストレートに描かれるのではな
く、反面として深く心に刻まれるのである。
人間は、自分以外の人に対して無償の愛を与えることができるのか?
どんな罪でも赦すことができるのか?
誰でも自分が一番かわいいものである。本書の続編である「続 氷点」にこんな話が出てくる。
妻が自分の大事にしている万年筆のペン先を不注意でつぶした時には厳しく咎めたが、その後自分で万
年筆をなくした時は惜しいことをしたと思っただけで自分を咎めることはなかったというのである。
大きく納得してしまう。ぼくもそういう経験は数えきれないほどある。そういうとき、人は自分に不都
合なことをしたのが自分以外の人間であれば、その責任を全面的におしつけ、咎めそれによって溜飲を
下げるのである。自分の過失であれば、怒りをぶつける対象がないためにそのままになってしまう。
まさか本気で自分自身を咎める人などいないだろう。これは後悔とは別の話なのだ。
そういうことを真剣に問い直してみるとなんと自分は罪深い人間なんだろうと思ってしまうのである。
罪とそれを赦す心の問題は、人間にとってはあまりにも大きな問題なのだと思う。
いろいろ考えさせられる本だった。答えはまだ見つかっていないのだが・・・・。