読書の愉楽

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ヴァージニア・ウルフ「灯台へ」

灯台へ(新潮文庫)

  どうも知識が不足していて、ヴァージニア・ウルフといえば、ジョイスと並ぶ『意識の流れ』を小説で著した作家だと勝手に認識していたが、実際この二人の作品を読みくらべてみると、その差異は歴然としている。ジョイスは、個人の内面の意識の流れを奔流として描き出したのに対し、ウルフは、その場にいる幾人もの人物の内面を行き来しながら、互いの存在によって少しずつ感情や認識が変化していく様子を途切れることなく描いている。そうすることによって、読み手は今語っているのが誰なのかという大前提から解き放たれ、知らぬ間に、あの人、この人へと視点を移されてしまう。描かれていることは、誰もが日常で無意識に行なっていることで、そうした日常を複数の人物の意識を行き来しながら描くことで、ときおり誰の意識なのか考えさせられることもあるが、その移り変わりは驚くほど自然だ。

 話は動かない。それがこの物語の最大の特徴。ある家族のとある一日が本書の大半を占めるが、その中で時間は確実に流れているのに、物語が前進していく感覚がほとんどない。これって、凄いことだと思う。読むほうは受け手であるがゆえ、字面を追っていけば自然とページが進んでいくが、登場人物の心理だけで読者を惹きつけ続ける構成は、筋書きで引っ張る小説とはまったく異なる技術が要求されると思うのである。

 そして、この小説が発表されてもう百年になろうとしているのに、いま読んでさえ新鮮な驚きにみちている一因として、その構成の妙があるといえる。第一部では、ラムジー家をとりまくとある一日の出来事を心象風景を中心に二百ページ以上を費やし描くのに対し、第二部では、それからの十年あまりをたった三十ページで描くのである。賑やかだったあの家がずっと放置されみるみる風化してゆき、尚且つ、一部で親しんだラムジー家の主要人物たちの死でさえ、それぞれ一、二行の括弧書きで済ませてしまうという大胆な構成には驚く。そして第三部でその後のとある一日をまた百ページほどかけて描くのである。

 翻弄と驚嘆が交互にやってくる。それは大胆である上に緻密さも併せもつ素晴らしい表現だ。試みが完璧に読者を呑み込んで、読んでいるうちにウルフが何を目指してこの小説を書いたのかが少しずつ理解され、その発見が読み手にダイレクトに驚きと興奮をもたらす。第三部では、ラムジーが子たちを連れて灯台へとむかう過程と客人であるリリー・ブリスコウが絵を完成させる過程が交互に描かれ、それらが同時に完遂するところで終わる。いままでさんざん弄んできた作者が、ここで居住いを正して正装して最後の挨拶をしたみたいな完成された演出を感じた。そこにある完成美を全身で感じとった。

 ヴァージニア・ウルフの作品に接するのは初めてだったが、なんでもない日常を描きながら(途中、大戦があったりはしたけど)これほどの驚きをも与えてくれたことに感服。素晴らしい体験だった。