根本の話なのである。歴史小説は数多く書かれているが、それの元となるものは史実であり史書やそれに準ずる研究資料だったりする。研究資料にいたっては日々新たな説や事実が発見されたりはしているのだろうが、大元では古事記や日本書紀にはじまり、吾妻鏡や信長公記などの決まった史書に寄るしかない。
そこから無数の歴史小説が生まれ、何人もの信長や秀吉に出会ってきた。それぞれその作者独自の解釈によって物語は構築され、そこでは生きた信長や秀吉がわれわれの目の前に立ち現れた。それは、しかし作者の言葉なのである。あたりまえだけど。起こったことは事実だとしても、どうしてそうなったのか?何が彼を、彼女をそうさせたのか?そのとき、その人物はなんと言ったのか?すべて想像だ。
以前ローラン・ビネの「HHhH (プラハ、1942年)」を読んだとき、そのことに直面して驚いた。確かにそのとおりだ。歴史上の出来事のディテールなんて推測以外にどうやったら掘り起こせるのだろうか。それを想像で補わずに描くことなんてとうてい無理なのだ。しかし、歴史小説の読者としてはそれが旨味でもあるとおもうのである。それをわかった上で新しい解釈や、新鮮な局面に驚きたいのだ。
歴史小説を創造する側としては、どこまで許容するのか。その時代の物の名称は現代では通用しないとか、当時のありようをそのまま描けば現代人のわれわれにとっては馴染みがなさすぎて衝撃が強いとか。事実としてわかっていることでも、それを物語の中で使えば正しいことだとしても読者側は理解できない、許容できないという問題もおきる。となると、そこには齟齬が生まれてしまう。
ぼくみたいな、主に小説によって歴史上の出来事を知っていく読者は、その度ごとに歴史上の人物を塗り替える。生来の頭の良さと人たらし的な懐柔術で百姓という身分から天下統一を成し遂げた豊臣秀吉も、違う目で見れば容姿の醜さのコンプレックスから美しい女性をモノにする欲望だけでのし上がった好色漢として描かれてたりするし、本書の著書も信長が女だったらなんて小説を書いている。
いってみればそれほどの過去の話はある意味ファンタジーなのだ。史学としてはそこにあるのはただ一つの事実のみなのだろうが、それが小説になると自由になる。本能寺の変は起こったが、なぜ光秀が反旗をひるがえしたのかという理由はいまだにわかっていないのである。西郷隆盛が本当に、ごわすと言っていたのかもわからないのである。
そこに歴史小説の強みがある。余白を埋める作業が物語を生むのだ。著書は読者は読者なりに自分の物差し(史観)をもてば良いと言う。それは過去のさまざまな歴史の出来事をあらゆる視点で体験することによって培われていくものだと思う。だからそういった専門的な研究は歴史学者に任せといて小説は独自で自由に楽しめばいいんじゃないのと思うのである。
