爪を研いだ危険な誘惑に簡単に陥落してしまうボヴァリー夫人。それは必然であって上巻で積み上げられた現状への不満がここへきて一気に開放される。一度決壊した常識という防波堤は修復されることなく甘く危険な逢引は彼女を狂わせてゆく。
惑いをいとわず彼女の喜びは突き抜ける。なんでもない風景や馴染みある生活は彼女の陰、新鮮なときめきと悦楽を与えてくれるあなただけがすべて。彼女は逃げる。新しい次元へ、扉のむこうへ。
当時、このエンマの言動が良識ある人々の不信を呼び起こしたのだろうが、彼女の切実な思いはそんなに非難されるべきものなのだろうか。現代の物差しで見ても、家庭や子供を顧みず自らの夢想や憧れを追い求めるなんて姿は眉をひそめ、とうてい肯定できない行為としてとらえられるだろうが、こういった守るべきものや信条がずれてしまったのはなぜか?と考えてみるに、元はと言えば、ただ結婚が早計だっただけなのではないかと思うのである。無責任といってしまえばそれまでなのだが、満たされぬ結婚生活によって彼女は一生を棒にふることになった。人生は瞬き、喜びは刹那、苦しみは永劫なのである。
この物語の始まりはのちのエンマの夫となるシャルルの学生時代だった。大筋での本書の内容を知っていたぼくはどうしてこんなところからこの物語が始まるんだろうと不思議だった。しかし、全体を読み終えてみると、シャルルの凡庸さをこうして描いておくことでエンマの不自由さを際立たせる効果があったのではないかと思うのである。しかしよくわかないのは、この書き出しの時点で物語には語り手がいたということだ。ここでは私たちというほぼ一人称の存在が物語を語っているのである。だが、その存在はすぐに消えてなくなり、物語は三人称で語られることになる。特定の個人がいるわけでなく、その後の展開でこの物語を定点観測して語っているのは神の視点なので最初に登場した『私』は誰なのだろう?と気になっている。
後半ボヴァリー家は、絵に描いたように転落してゆく。髪ふりみだし、目を血走らせて奔走するエンマ。じわじわと追い詰めてくる現実。誰かが助けてくれるはずとわかり切った結末を直視しようとしないエンマに焦れる。このへんの緊迫感を以前にも味わったなと思い返し、宮部みゆきの「火車」を読んだ時もこんな気持ちになったことを思い出した。
物語の結末は皮肉なものだ。しかし、それが痛快にも感じる。戒めとしてとらえれば、本書はまことに良識ある指南書だ。しかし、一歩下がって見ることのできない読者にとってはこれほど息苦しいことはない。おもしろかった。
