読書の愉楽

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キース・トーマス「ダリア・ミッチェル博士の発見と異変 世界から数十億人が消えた日」

ダリア・ミッチェル博士の発見と異変 世界から数十億人が消えた日 (竹書房文庫)

 
 人類初のファーストコンタクトは、異星人がUFOにのってやってくるのでもなく、人類が宇宙に進出して遭遇するのでもなく、われわれのこの静かな日常になんの前触れもなく浸食してくるものだった。

 この未曾有の地球的規模の危機をいったい人類はどうやって受けとめ乗り越えたのか?その過程をドキュメンタリーの手法で詳細に描ききったのが本書なのである。だから、体裁はもちろんSFなのだが、本書にはUFOも異星人も進歩した科学技術も登場しない。ここで描かれるのは驚異に直面して右往左往する等身大の私たちなのだ。

 ドキュメンタリーとして描くことを徹底している本書には、もちろん小説としての枠組みはない。数々の証言、会議の記録等で構成され、それがゆるやかな時系列を追う形で配置され、事の次第を浮き彫りにしてゆく。タイトルから察せられるのは、世界から数十億人が消える事態が起こったということ。この顛末の中心にはダリア・ミッチェル博士がいるということぐらい。いったい何が起こったのか?

 ドキュメンタリーの手法の常として、ここで語られる出来事はすでに過去の事だ。そう、事は終息しているのである。すべてが終わった後におのおのは過去を振りかえってその『出来事』を語る。しかし、ストーリーを追う読者はまだ何が起こって、どうなったのかを知らない。だから、そこに認識の差異としての緊張が生まれる。こちらは知らない。向こうは知っている。手の内を探るババ抜きみたいな状況だ。そういう状況におかれたものは、焦燥感にかられる。ヤキモキしてしまう。真相を知りたいがゆえに先を急ぐ。

 この手法でぼくの記憶に残る傑作は二冊ある。マイクル・クライトンの「アンドロメダ病原体」とスティーヴン・キングのデビュー作「キャリー」だ。この二冊の結末を知った上での『すでに起こった事』として描くサスペンスは素晴らしい効果をあげていて、読んでいて動悸が激しくなるのがわかるくらいだった。そういえば、ポール・トーデイの「イエメンで鮭釣りを」も同じ手法でなかなかの効果をあげていたよね。

 でも、本書のサスペンスはそれほどじゃない。話の最初のほうから『上昇者』という単語が出てきて、その人々が命を落としているということも知る。しかし、半ばを過ぎるまでいったい『上昇』とはどういうことなのか?どうして命を落とすのか?詳細はわからない。にもかかわらずそこにサスペンスは感じられない。これは作者の意図するところなのだろう。あくまでも、エンターテイメントに偏るのではなく、ドキュメントとして写実を心掛けた結果だろうと思う。

 でも、それが逆に本書が心に残る印象となっているのも事実。ぼくは、けっこう好きだった。おもしろい試みだと思った。これだからSF畑を掘り起こすのやめられないんだよなー。