この短編集はいままでの彼女の作品とは少し趣が違う。ここに収められている八編の短編は小説の体ではあるが、全部が全部物語としての小説ではない。タイトルにもなっている『意識』を全面に押し出した小説といえばいいか。
特に「岩盤浴にて」「こたつのUFO」「怒りの漂白剤」の三編は、作者等身大と思われる女性の内証的な語りで終始する。それぞれ、膝を叩いてしまうような、腑に落ちる箴言に満ちていて例えば
知らないふりを決め込めば、簡単にやり過ごせる他人の心の機微や傷つきに、立ち止まる勇気がなくなってから、もうずいぶん経つけど
臆病になっちゃいけないね。大切なものを守りながらも、いろんな景色が見たい。
理論武装を剥がしたら、相手をずるいと思って反射的にむかついている根っこが露呈した。
なんて言葉がどんどん繰り出されてくる。いま書いているこの小説はそのまんまの私小説ではない。だから、ここに登場する彼女の言葉、考え、趣味嗜好がそのまま私を反映しているわけではないとのたまいながら、その語りはどんどんヒートアップしてゆく。
でも中には猟奇的な犯行を繰り返す通り魔の恐怖におびえる主婦を描いた「声の無い誰か」や交通事故で生死をさまよう女性を描く表題作や、結婚というイベントを控えてそこに不穏な要素を取り込み対になっている「履歴の無い女」と「履歴の無い妹」、女性と別れた小説家の『おれ』が主人公の「ベッドの上の手紙」なんてのもある。
ぼくが綿矢りさの作品が好きなのは、そこにきれいごとばかりじゃない荒々しい言動や、生々しい衝動が見え隠れするからなのだ。彼女は、すべてをさらけ出しているわけじゃないのに、すべてを隠そうともしていない。自然にそこにあるものをくみ取って、咀嚼して、自分の身にしている。
だから、ぼくはその飾らない世界に安心する。しかし、気のおけない世界でもあるんだよね。